第二章 水

水は足りているうちは、考えなくていいものだった。

正確には、考えていたのだろうが、考えるという行為のうちに含まれていなかった。蛇口をひねれば出る。湯を使えばあとで冷たい水が恋しくなる。冷たい水を飲めば、次に湯が欲しくなる。風呂に入る。皿を洗う。洗濯機を回す。花瓶に足す。雑巾を絞る。考えるまでもなく、生活のいたるところに水が入り込んでいて、そのこと自体は意識されない。意識されないほど遍在しているものは、失われてからようやく輪郭を持つ。

いまでは朝の最初に水を見る。
量、色、沈殿、匂い。
その四つを見てから、その日の順番を決める。

倉庫区画の奥に、貯水容器を並べた棚がある。最上段に飲用、二段目に調理と簡易洗浄、下段に生活用、そのさらに下に雨水を直接受ける予備容器。容器はなるべく同じ規格でそろえた。蓋のサイズがそろっていれば、ひとつ壊れても回せる。持ち手の形が似ていれば、暗い場所でも手が迷わない。色も、できれば半透明がよかった。中身の残量と濁りが一度に見えるからだ。だが、同じ規格の容器ばかり都合よく集まるわけではない。結局、棚にはペットボトル、灯油用ポリタンク、食品保存用のケース、洗剤の空き容器まで並んでいる。ラベルは剥がせるものは剥がし、剥がれないものは上から布テープを貼って使い道を書く。飲用。生活用。煮沸前。洗浄済。保留。そう書かれた文字が並ぶだけで、棚は少しだけ秩序を取り戻したように見える。

秩序を取り戻したように見えるだけで、実際には水は容器の中で少しずつ変わっていく。
透明なままでも、長く置けば匂いが変わる。
煮沸しても、移す容器が悪ければ意味が薄れる。
布で濾しても、布そのものが汚れていればただ移し替えているだけになる。
水は扱い方を間違えるとすぐに、飲みものではなく危険物に近づく。

だから、記録する。

机の横の薄いノートには、水のことだけを書くことにしている。日付、採水量、煮沸回数、濾過布の交換日、沈殿の有無、異臭、腹の具合。腹の具合、という項目を最初に作ったとき、少しだけ自分を馬鹿にした。だが、あとになって役に立った。腹を壊した日を辿ると、だいたい前日か前々日の水に問題がある。食べたものではなく、水のほうが原因であることが多かった。食料の異常は目で見つけやすいが、水の異常は身体の中でわかることが多い。わかったときには遅れている。それでも記録があれば、次は少しだけ遅れ方が小さくなる。

朝の記録に、濾過布交換、と書いたのを思い出し、倉庫区画から予備の布を持って屋上へ上がる。布は本来の濾過材ではない。目の細かいさらしを折りたたみ、洗って乾かし、何枚か重ねて使う。最初の頃は市販の浄水器カートリッジを探して回ったが、合う規格が少ないうえに消耗が早く、いずれ尽きるとわかってやめた。長く続ける生活には、性能よりも再現性がいる。少し性能が落ちても、何度でも同じ手順ができるほうがいい。

屋上の空は朝よりも明るくなっていた。明るいが、晴れているわけではない。薄い雲が広がっていて、光の輪郭が曖昧だった。こういう日は発電量が伸びない。そのことを考えながら、水のほうを見るのは癖になっている。水と電気は別の問題に見えて、朝の判断の中ではいつも並んでいる。どちらも量があるだけでは足りない。どう回すかで、その日の形が変わる。

集水パイプの先端に巻いてある布を外す。思ったより黒い。土埃だけではなく、細い繊維片や植物のかけらも混じっている。手のひらに載せると、湿った布は生き物みたいに重い。新しい布に替え、留め具を締め直す。こういう作業をしていると、昔の仕事の記憶がときどき混ざる。締める、確認する、一覧にする、交換時期を決める。そういう手順だけは、世界が変わっても残る。残るというより、他の多くが消えたから目立つようになっただけかもしれない。

手すりの向こう、駐車場の奥にあるフェンス際では、背の低い草がまた少し伸びていた。アスファルトの割れ目や、排水のたまりやすいところから先に広がっていく。植物は公平だった。看板にも、車にも、建物にも、躊躇なく同じやり方で触れていく。人間がいなくなった世界ではなく、人間の手だけが減った世界、というのが本当なのだと思う。そこにまず入ってくるのは静寂ではなく、伸びるものと、溜まるものと、止まったまま残るものだった。

布を替え終え、タンクの縁についた汚れを拭き落とす。タンクは三つある。ひとつは飲用候補、ひとつは生活用、もうひとつは不安定だ。昨日の弱い雨で少し水が増えたのは飲用候補のタンクだったが、屋上の流路が完全に清潔である保証はない。保証という言葉がいちばん遠くへ行ったのは、たぶんこういう部分だ。昔なら水質検査や基準値の話になっただろう。いまはそうではない。見て、嗅いで、沈殿を待ち、煮て、祈る、とまでは言わないが、信じる。信じる、と言っても宗教ではなく、暫定的な採用だ。人は毎日、そういう暫定で生きていたのかもしれない。文明の中ではそれが見えにくかっただけで。

下へ戻る前に、昨日の箱から出てきた瓶のことを思い出す。あれも透明な液体だった。水かもしれないし、水に見せたい別の何かかもしれない。透明な液体に対して人間が最初に抱く信頼は、けっこう根深い。そこへつけこむのは簡単だ。瓶はまだ開けていない。開けるにしても、今日すぐに開ける必要はない。必要ではないものを必要に見せるのは、たいてい不安の仕事だった。

屋上から戻ると、まず火を使う。煮沸用の鍋は決めてある。持ち手の片方が少し緩んでいるが、容量がちょうどよく、底が厚い。ガスを使うのではなく、小型のアルコールストーブと風防で湯を沸かす。火力は安定しないが、燃料の残量が読める。炎は見えにくい。見えにくいものを相手にするとき、人は視覚より手順に頼る。だから点火、位置確認、周囲の片づけ、消火用の布の位置、そういう順番を崩さない。崩すときは、たいてい急いでいる。急いでいるときに限って火は小さく見えて、水は多く見える。

鍋の底に当たる火の音を聞きながら、飲用候補の水を別容器に移す。移し替えるたび、容器の底に少しだけ残る沈殿を見る。泥というほどではない。ほこり、砂、細かい黒い粒。世界の表面を削ったものが、少しずつ水に入ってくる。人間の生活はその程度の異物を取り除きながら続いてきたのだろうし、いまも大差ないのかもしれない。ただ、取り除いてくれる大きな仕組みがなくなって、こちらの手元にまで降りてきただけだ。

煮沸が終わるまでのあいだ、皿を洗うかどうか少し迷う。朝食の皿は軽くすすいだだけで、まだ横に置いてあった。洗えば水が減る。減るが、残せば匂いがつく。匂いは人間の生活をはっきり示す。匂いはそのまま、ここに誰かがいるという情報になる。けれど、匂いを完全に消した生活は、生活というより一時的な潜伏に近くなる。どこまで消し、どこまで残すか。その線引きは、日により、気分により、風向きにより少しずつ動く。

結局、昨日までの生活用の残りで洗った。洗い桶の底に白い曇りが残る。石鹸は少ない。残りの量が目に見えて減るものは、いつも少し心を削る。水もそうだが、石鹸のようなものはとくにそうだった。代替手段がありそうでいて、使い心地と衛生を一度に満たすものは少ない。

湯が上がったところで火を弱め、しばらく置く。すぐに蓋を開けると埃が入る気がするし、完全に冷めるまで待つと時間を失う。その中間の、たいして根拠のない時間がある。たいして根拠のない時間といっても、そういうものの積み重ねで一日はできている。冷ましながら、記録帳に追記する。

「濾過布交換。沈殿少量。色調変化なし。異臭なし。煮沸一。」

こういう文は、誰かに読ませるために書いているわけではない。それでも、読める形にしておきたいと思う。読める形にするということは、出来事を自分の外に出すことに近い。自分の頭の中だけにあると、不安はすぐ増殖する。不安は枝分かれが速い。水は濁るのに時間がかかるが、不安は数秒で濁る。

午前のうちに、生活用水の移し替えも済ませることにする。生活用は飲用ほど神経質には扱わないが、それでも容器の汚れや藻の気配は見ておく。生活用の棚の一番下には、洗濯用に回すつもりで取っておいた水がある。洗濯、と言ってもバケツと手洗いだ。頻繁にはやらない。やる日は決めていないが、布の重さや襟の匂いでだいたい決める。身体の清潔は気分の問題ではなく、傷や炎症の速度に関わる。だが、洗いすぎると水が減る。その単純な板挟みのなかに、生活がある。

移し替えの途中で、ポリタンクのひとつに細いひびを見つける。持ち上げたとき、側面がわずかにたわんだ。まだ漏れてはいない。だが、このまま使えばいずれ割れる。容器を失うのは水を失うのと同じくらい厄介だ。中身があっても、保てなければないのと変わらない。容器は社会に似ている。中に入っているものの価値は、その外側が壊れるだけで急に変わる。

ひびの入ったタンクを保留の棚へ移す。修理できるかもしれない。できないかもしれない。保留の棚には、そういうかもしれない、ばかりが集まる。名前のない部品、用途の読めない鍵、開けていない瓶、誰かの字。保留が増えると棚はすぐに厚くなる。世界が読めなくなるのは、巨大な災厄のあとではなく、こういう保留が処理しきれなくなったときなのかもしれない、と第一章でも思った。その感じは今日も続いていた。水の棚だけは、なるべく保留を作りたくなかった。水は保留に向かない。保留にしたままの水は、だいたい悪くなる。

昼が近づくと、建物の中の空気が少し変わる。朝の冷気が引き、かわりに湿った暖かさが床の近くに溜まる。高窓から差す光も白さを増し、棚の影の輪郭がぼやける。こういう時間帯は、屋上のタンクの表面温度も上がる。温度が上がると水は早く変わる。変わる速度が目に見えないから、こちらの判断も少し荒くなる。だから昼前に水仕事を終えておくのがよかった。終えられない日もある。だが終えられる日は、そのこと自体が一日の強度になる。

乾麺を茹でるための水を計る。計るというほど精密ではないが、鍋の内側に傷でつけた目印がある。線の上まで。そこまでしか使わない。余ればスープとして飲む。捨てない。捨てるという行為そのものが、昔よりずっと具体的になった。捨てるとは、どこへ、何を、どの状態で手放すかということだ。水に関してはとくにそうだった。捨てた場所がぬかるめば、そのぬかるみは次に何かを呼ぶ。匂い、虫、黴、滑り。小さな処理がそのまま生活の輪郭になる。

麺を茹でながら、昨日届いた瓶のひとつをもう一度光にかざす。昼の光のほうが朝よりもよく見える。透明な液体はまだ透明だ。ラベルがないことが逆にきれいに見える。きれいなものは、用途がわからないと少し怖い。清潔そうに見える液体ほど、その正体に想像が走る。消毒用アルコール、精製水、薬液、あるいは本当にただの水。瓶の口元をよく見ると、ねじ山の隙間に白い粉が少しだけ残っていた。結晶か、乾いた汚れか、判別できない。今日は開けないことにする。開ける日は、そのための手順を先に決めてからにしたい。

昼食を終えてから、外へ水を捨てに行く。捨てる、といっても生活排水をそのまま流すのではない。建物の裏の土のある一角に、排水用の浅い溝を作ってある。そこへ少しずつ撒き、表面を砂利で覆う。完全に正しい方法ではないだろう。だが完全に正しい方法のほうがもう存在しない。あるのは、いまの条件でまだましなやり方だけだった。まだまし、という判断の積み重ねで、ここまで来た。

裏手へ回ると、非常階段の下に小さな水たまりができていた。昨夜の雨が、階段の傾きでそこへ集まったらしい。油膜はない。泥も少ない。ただ、そこに映る空は薄く揺れていて、建物の赤錆を少し柔らかく見せていた。たまり水は使わない。使えないわけではないだろうが、使えるものと、使わないほうがいいもののあいだには、明確な境界があるわけではない。だから境界のようなものを自分で引くしかない。ここまでは飲む。ここから先は洗う。ここから先は捨てる。その線引きは技術というより、生活の癖だった。

溝へ排水を撒いた帰り、手を洗うための少量の水を容器から出す。手を洗う、というだけで水を使うのは贅沢かもしれない。だが傷口に入る汚れや、目をこすったときの刺激や、鼻の奥に残る臭いを考えると、贅沢とまでは言い切れなかった。節約は生存の条件だが、節約がそのまま安全ではない。たいてい、どこかで逆転する。そこを見誤らないために記録があるのだと、たまに思う。記録とは未来の自分への指示書ではなく、過去の自分がどこで線を引いていたかを残すためのものなのかもしれない。

午後になって、喉が渇く。朝に煮沸した水をコップに半分だけ注ぐ。半分だけ、というのは身体の要求ではなく習慣だった。まず半分飲み、まだ欲しければ継ぐ。最初から満たすと、足りている気になる。足りている気分は判断を鈍らせる。そういう小さな用心がどれだけ意味を持つのかはわからないが、意味がなくなったと確信できるまでは、続けるしかなかった。

飲んだ水はぬるかった。冷たくはないが、悪くない。口の中に金属っぽい後味がわずかに残る。鍋か、容器か、もとの水か。原因はひとつではないだろう。ひとつではないことを受け入れるのも、生活の一部だった。問題はひとつの原因で起きる、という世界の見方は、かなり遠くへ行ってしまった。実際には、複数の弱い異常が重なって、ある朝に腹を壊す。ある夕方に灯りが落ちる。ある夜に眠れなくなる。水もそうだ。濁り、容器、火、保存、温度、そのどれもが少しずつ関わる。

午後遅く、屋上へもう一度上がる。朝に替えた布がどうなっているか見たかった。空はさらに重くなり、雲の底が低くなっている。夕方から降るかもしれない。降らないかもしれない。そのあいだにある灰色の時間が、いちばん判断を迷わせる。タンクを覗くと、朝よりわずかに水位が上がっていた。気のせいかもしれない程度だったが、気のせいでないかもしれないと思えるだけで、その日の夕方は少し組みやすくなる。

手すりにもたれて駐車場を眺める。遠くのフェンス際に置かれた車の屋根に、水滴の跡がまだ残っている。そこに触れていたのと同じ雨が、こちらのタンクにも入ったのだと思うと、世界は妙に近い。同じ空から落ちたものが、片方では錆を進め、片方では喉を潤す。その分岐は容器と手順にかかっている。人間の仕事は、もしかするとずっとそういう分岐を作ることだったのかもしれない。落ちてきたもの、溜まったもの、余ったもの、流れたものを、どこで何に変えるか。社会も制度も、結局は巨大な分岐装置だったのではないかと思う。水道はその最たるものだった。見えない場所で取り込み、濾し、送り、捨てる。その過程を誰も意識しなくてよかったから、人間は他のことを考えられた。

いまは違う。
水を見ると、生活全体が見える。
どれだけ残っていて、どこまで使えて、何を諦め、何を保つか。
水はただの資源ではなく、一日の骨組みだった。

下へ戻ると、夕方のための準備を始める。夜に雨が降るなら、予備容器を出し、流路のゴミを一度払っておく必要がある。風が強くなるなら、軽い容器は倒れないように寄せておく。発電が弱いぶん、照明の時間を短くするかもしれない。そうなると夜の記録は短くなる。短くなるが、ゼロにはしない。水のことだけは一行でも書く。
量。色。匂い。異常。
その四つだけでも。

夕方、予想どおり雨が降りはじめた。
最初は細く、音も軽い。
屋根を叩くというより、建物全体の表面を静かに撫でるような降り方だった。
屋上へは上がらない。こういうときに動くと、たいてい一つ余計な失敗をする。窓の隙間から音を聞き、頭の中で流路を辿る。パイプの先端、布、タンク、予備容器。想像の中では水はきれいに流れるが、実際にはどこかで飛び散り、溜まり、あふれ、少し失う。それでも降っているだけで十分だった。

記録帳を開く。
今日の欄に、朝からの水仕事を一度見返してから、最後に書き足す。

「夕。降雨。採水見込みあり。
 生活用移し替え済。ひび容器一、保留。
 透明瓶三、未確認。」

未確認。
その言葉は便利だった。
確認していないという事実だけを置いておける。
安全でも危険でもなく、ただまだ判断の手前にあるもの。
保留と未確認が増えていくのはよくない。だがゼロにはできない。ゼロにできない以上、言葉で棚を作るしかない。

雨音は少しずつ厚くなっていく。
机の上に置いたコップの水面が、建物のかすかな振動で揺れる。
揺れは小さい。だが、揺れているとわかる程度には生きている。建物も、雨も、自分の耳も。

水は足りているうちは、考えなくていいものだった。
いまは違う。
考えるたびに、水はただの液体ではなくなる。
手順になり、記録になり、判断になり、その日の暮らし方そのものになる。

コップを持ち上げ、残りをひと口だけ飲む。
外ではまだ雨が降っていた。
その音があるうちは、夜は少しだけ組み立てやすい。
明日の朝、最初に確認するものが、少なくともゼロではないかもしれないからだった。

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