本編

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第十三章 規律

規律は、破るときより、守る理由が薄くなったときに先に崩れる。最初のころ、彼の生活には細い線が何本も引かれていた。起床時刻。貯水の点検日。棚卸しの間隔。洗濯の順番。食料の開封順。記録を書く時間。工具を元の位置に戻すこと。就寝前に火気を確認する...
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第十二章 役割

最初に違和感を覚えたのは、呼び方だった。少し離れた区画で、人とすれ違った。男だった。年齢は四十代にも五十代にも見えた。痩せていて、肩のところだけ妙に厚い上着を着ていた。右手に長い棒のようなものを持ち、歩き方は慎重だった。こちらに気づくと立ち...
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第十一章 住所

住所は、長いあいだ死ななかった。もっと先に消えるものはいくらでもあった。店の灯り、駅のアナウンス、道路標識の新しさ、季節商品を並べる棚、ガラス越しに人の気配が見えること。そういうものは早かった。機能が止まれば、その場で意味も薄くなる。だが住...
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第十章 交換

最初に物を渡したのは、交換のつもりではなかった。雨のあとの午後だった。空はまだ低く、地面の継ぎ目に水が残っていた。彼は旧道沿いの建物群を回った帰りで、背嚢には缶詰が二つ、乾電池の未開封パックが一つ、文具店跡で見つけた油性ペンの箱が入っていた...
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第九章 曜日

曜日が抜け落ちたのが、いつだったのかはわからない。日付はまだ残っていた。朝起きて、壁の脇に吊した小さな板に数字を書く。消して、また書く。月も年も、そのたびに古い記録と照らし合わせて補うことができた。正しいかどうかは別として、とにかく連続だけ...
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第八章 記録

書く理由は、最初は簡単だった。忘れないため。数を間違えないため。水の残量を把握するため。どこで何を見つけたか、次に行くべき場所はどこか、どの容器に何を入れたか、どの棚に何を置いたか。そういうことを書き残さなければ、生活はすぐにほころぶ。ほこ...
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第七章 外部

外へ出ると、世界は思っているより広く、思っているより薄かった。拠点の中にいると、世界は棚と通路と水と光でできている。どれも手の届く範囲にある。扉を閉めれば、危険は少なくとも向こう側へ押しやれる。だが外へ出ると、その境界はすぐに曖昧になる。危...
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第六章 地図

地図は、世界がまだ平らであるという仮定の上に成り立っている。広げれば見渡せて、辿れば着ける。道路は道路のまま続き、橋は橋として架かっていて、建物はそこにあり、記号は実物と対応している。そういう前提があるから、紙の上の線は役に立つ。役に立つと...
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第五章 日付

日付は、失われるとすぐ困るものではない。少なくとも最初はそうだった。水が切れれば困る。食料が減れば困る。火が使えなければ困る。雨が入れば困る。眠れなければ困る。日付はそのどれにも直接は触れない。今日が何月何日であるかを知らなくても、水は煮沸...
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第四章 棚

物を集めることと、物を並べることは違う。集めるだけなら、本能に近い。必要だから持ってくる。足りなくなる前に拾う。見つけたときに確保する。そういう動きだけなら、獣にも似ている。口に入るもの、傷を防ぐもの、寒さをしのぐもの、火になるものを、危険...