日付は、失われるとすぐ困るものではない。
少なくとも最初はそうだった。
水が切れれば困る。
食料が減れば困る。
火が使えなければ困る。
雨が入れば困る。
眠れなければ困る。
日付はそのどれにも直接は触れない。
今日が何月何日であるかを知らなくても、水は煮沸できるし、缶詰も開けられるし、扉の閂も閉められる。
だから最初は、日付のことを後回しにした。
後回しにしたものは、たいていあとで大きくなる。
日付もそうだった。
机の横の壁に、古いカレンダーが掛かっている。
紙質のいい、企業名の入った配布用のものだった。
山の写真が月ごとに変わる。
いま見えている写真は、たぶんもう季節に合っていない。
先月のまま止まっているのではなく、もっと前から止まっている可能性もある。
何度かめくり直し、今の月へ合わせたことはある。
だが、その合わせ方に自信がない。
月の位置を合わせても、その月が本当に今なのかは別の問題だった。
机の引き出しには、手帳が三冊ある。
ひとつは崩壊の前から使っていた仕事用の薄い手帳。
もうひとつは、この建物に来てから使い始めた大学ノート。
最後のひとつは、月の満ち欠けと天候だけを書きつけるための小さなメモ帳だ。
日付を確かめるときは、その三つを並べる。
仕事用の手帳には、昔の予定が書かれている。
会議、納品、電話、振込、訪問。
どれももう実現しない予定だ。
それでも日付だけはそこに残っている。
残っているというより、印刷されている。
印刷された日付は強い。
実際の生活から切り離されても、数字の形だけは自信ありげに並んでいる。
大学ノートのほうには、この場所へ来てからの日々の記録がある。
最初の頃はきちんとしていた。
年月日。曜日。天気。気温の目安。
そのあとに、採水量、移動距離、持ち帰った物、体調。
だが、数週間たつうちに曜日が空欄になった。
曜日を書く意味が薄れたからだ。
月曜日でも木曜日でも、やることに大差がない。
ごみ収集も来ない。
配達もない。
店の定休日もない。
休みという概念だけが、先に意味を失った。
休みが失われると、その反対側にあった平日もいっしょに痩せる。
曜日というものは、生活の中に差があるから成立していたのだと、そのとき初めて思った。
いまはもう、曜日の欄自体を書かない。
最初は罪悪感のようなものがあった。
自分で世界の骨組みを一本抜いたような感じがした。
だが実際には、抜いたのではなく、もうその骨が支えになっていなかっただけなのだろう。
日付の確認には、いくつかのやり方がある。
月の満ち欠け。
日の出と日の入りの長さ。
気温。
雨の周期。
植物の伸び方。
手帳の記録との照合。
どれも完全ではない。
だが完全な方法は、もう存在しない。
存在しない以上、いくつかを重ねて、ずれの小さいところを採用するしかない。
朝、机の上に三冊のノートを並べる。
カレンダーは壁に掛けたまま見る。
ノートの端は湿気で少し波打っていた。
紙は時間を抱え込む。
匂い、湿り、癖。
書かれた内容だけでなく、紙そのものが経過を記録している。
電子機器の画面ではそうはいかない。
そこに表示される日付は正確でも、経った時間の感触までは残らない。
紙のよさは、不正確さの中に手触りがあることかもしれなかった。
小さなメモ帳を開く。
そこには、丸と欠けだけで月の形が描いてある。
満月に近い日は丸、半月は縦に割り、細い日は鎌のように描く。
絵というほどではない。
ただの印だ。
それでも数週間続けると、周期が見えてくる。
前の満月から次の満月まで、おおよそこのくらい。
そのあいだに何度雨が降ったか。
冷え込んだ朝が何回あったか。
その重なりで、いまがだいたいどこにいるかを決める。
だいたい、という言葉がまた出てくる。
水でも、電気でも、空でも、時間でも、結局はそこへ戻る。
だいたい合っている。
だいたい足りる。
だいたいこのあたり。
文明は、だいたいを表に出さずに運用する仕組みだったのかもしれない。
誰かがどこかで誤差を吸収し、最終的にこちらには「正しい数字」だけが届く。
日付もそうだった。
暦は外から与えられ、こちらはそれに従っていればよかった。
いまは違う。
誤差ごと引き受けるしかない。
カレンダーの前に立ち、今の月をめくるかどうか少し迷う。
迷う理由は、月がわからないからだけではない。
めくるという動作には、今までの月を終わらせる感覚がある。
終わらせるには確信が要る。
確信のないまま月だけ進めると、時間のほうを置き去りにする気がした。
それでも、止まったままにしておくのもよくない。
止まった日付を見続けていると、いずれそこが現実のほうへ寄ってくる。
今日はまだこの月でいい、という気がしてしまう。
気がすることと、本当にそうであることの距離が、少しずつ縮まっていく。
結局、一枚だけめくる。
山の写真が変わる。
雪の稜線から、深い緑の渓谷へ。
季節感が合っているかどうかは自信がない。
だが、光の感じと今朝の空気には前より近い気がした。
近い気がする、というのもまた弱い根拠だ。
けれど根拠の弱さだけを理由に動かないでいると、時間はすぐに壁のほうで腐る。
腐るというのはおかしいかもしれない。
時間は腐らない。
だが、放置された日付には何か腐敗に近いものがある。
使われないまま紙に貼りついた数字は、生活と切れた札のようだった。
午前の作業の前に、記録帳へ日付を書く。
ここでいつも一度、手が止まる。
年。
月。
日。
その順に書いていくあいだ、毎回どこかに嘘が混じっているかもしれないと思う。
思うが、書く。
書かないと、もっと曖昧になる。
嘘の可能性がある数字でも、空欄よりはましだった。
空欄はすぐに広がる。
一日空くと、次の日も空きやすい。
二日空くと、その二日のあいだに何があったかを思い出す負担が増える。
負担が増えると、ますます書かなくなる。
空白は時間を食う。
今日は天気が安定している。
雲は薄いが光はある。
屋上のタンクの水位も、第二章の雨のおかげでまだ余裕がある。
高窓の補修をした第三章から、建物内の風の入り方も少し変わった。
そういう変化を記録するとき、本当は日付よりも前後関係のほうが重要なのかもしれない。
雨の翌日。
補修の翌々日。
瓶が届いてから三日目。
そのくらいのほうが、いまの生活には即している。
それでも年月日を書くのは、前後関係だけでは自分の外へ開けない気がするからだった。
今日が何かの翌日であるだけでは、時間は自分の内側で閉じる。
数字があると、まだ外の世界と同じ暦を共有しているようなふりができる。
そのふりが必要なのかどうかは、まだわからない。
昼前、外へ出たついでに空を見る。
太陽の高さ、影の長さ、風の冷たさ。
季節は数字よりも身体に入ってくる。
朝、靴を履く前の床の冷え。
水に手を入れたときの痛さ。
夕方の沈み方。
虫の気配。
そういうもので季節を測るようになると、月という単位が少しだけ遠くなる。
四月だから暖かいのではなく、今日はまだ朝が冷たい。
十月だから乾いているのではなく、今日は濡れたまま乾かない。
数字は便利だが、身体が受け取る時間とは別の場所にある。
それでも、数字には暴力的な強さがあった。
たとえば誕生日。
たとえば締切。
たとえば支払日。
たとえば賞味期限。
世界は数字で区切られていて、その区切りに従うことで多くのことが自動的に進んでいた。
いまはもうその多くが失われている。
誕生日を祝う相手もいない。
締切を待つ相手もいない。
請求も来ない。
期限切れの食品は、見て、嗅いで、食べて決める。
だが、数字の記憶だけは身体の中に残っている。
月末、という言葉を思い出すだけで、なぜか少し落ち着かない日がある。
金曜の夕方のような空気を感じる日が、何の根拠もなく訪れることもある。
生活が変わっても、時間の癖だけはしばらく残る。
癖は社会の亡霊みたいなものだと思う。
午後、机の引き出しから昔の手帳を取り出す。
崩壊の前の予定がいくつも残っている。
顧客名、地名、打ち合わせ時刻、振込予定、電話番号。
数字ばかりだ。
数字と固有名詞。
その組み合わせは昔の社会の縮図みたいだった。
誰が、どこで、いつ。
その三つが揃えば、たいていのことは進んだ。
いまは違う。
誰が、はぼやける。
どこで、は拠点の周辺に縮む。
いつ、はもっと曖昧になる。
残るのは、何を、どうやって、どこまで、のほうだった。
手帳の余白に、古い自分の筆跡がある。
「来週確認」
「月末まで」
「至急」
その言葉を見ていると、来週や月末や至急という概念が、以前はどれほど確かな足場だったかがわかる。
いまの生活にも急ぐことはある。
火が消えそうなら急ぐ。
傷が悪くなれば急ぐ。
雨が入れば急ぐ。
だがそれは時計や日付ではなく、状態によって決まる急ぎだ。
状態に従う生活は現実的だが、長く続けると時間の骨が少しずつ柔らかくなる。
骨が柔らかくなると、一日は一日であっても、いつの一日なのかが薄くなる。
夕方前、壁のカレンダーに小さく鉛筆で印をつける。
今日の日。
たぶん今日の日。
その印がまっすぐな列を作っていくのを眺める。
数日分、きれいに並んでいるところもあれば、空白が二つ続いているところもある。
空白の日は、書き忘れたのか、迷って書かなかったのか、もう覚えていない。
覚えていないことが増えると、人はすぐに不安になる。
だが、覚えていないことばかりを数えていたら、生活は前に進まない。
だから印だけを見て、列が続いていることのほうを採用する。
続いている。
少なくとも、この紙の上では。
日付を保つ理由は、誰かに証明するためではない。
誰も見ないかもしれない。
見たとしても、合っている保証はない。
それでも書くのは、日付がその日の内容を小さく囲ってくれるからだった。
囲いがあると、出来事は一日の中に収まる。
囲いがないと、昨日の雨と一昨日の不安と三日前の作業が、全部同じ曇った面に溶けていく。
溶けていくこと自体が悪いわけではない。
いずれはもっと大きく溶けるのだろう。
世界の輪郭も、自分の輪郭も。
だが、まだ少し先の話として扱えるあいだは、一日ぶんの囲いを置いておきたかった。
夜、机の手元灯の下で記録帳を開く。
今日の日付を見返す。
朝書いた数字が、夜になるともう少しだけ現実に近づいて見える。
一日がそこへあとから追いついたような感じがある。
数字が先にあり、出来事があとで埋まる。
そうやって日付は正しくなるのかもしれなかった。
正しいから書くのではなく、書くことで少しだけ正しくなる。
その考え方は危うい。
危ういが、いまの生活にはよく馴染む。
水もそうだ。
最初から安全だから飲むのではなく、煮沸し、濾し、記録し、使うことで、なんとか安全の側へ寄せる。
電気もそうだ。
最初から足りているのではなく、削り、回し、我慢することで足りる形にする。
時間もたぶん同じなのだろう。
最初から確かな日付があるのではなく、書き、めくり、照合し、疑うことで、だいたい合っている場所へ寄せる。
記録帳の最後に、一行だけ足す。
「今日を今日として置いた。」
少し変な文だった。
だがそのままにする。
日付とは、たぶんそういうことなのだ。
自然にある時間ではなく、置かれた時間。
壁に掛け、紙に書き、線を引き、今日と名づける。
そうしなければ、一日はすぐに別の日へ混ざる。
混ざったところから、また別の生き方が始まるのかもしれない。
だがまだ、そこまでは行かない。
手元灯を消す前に、壁のカレンダーをもう一度見る。
紙の端が少し反っている。
写真の緑は、暗がりの中で黒に近く沈んでいる。
数字だけが白く浮いている。
数字は冷たい。
だが、冷たいまま壁に残っていることで、今日という日もまだ少しだけ冷たく固まっていられる。
灯りを消す。
暗くなった部屋で、日付は見えなくなる。
見えなくなるが、消えはしない。
少なくとも今夜のあいだは、そう思って眠ることができた。

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