朝いちばんに確認するのは空ではなく、水だった。
屋上から垂らしてある集水パイプの継ぎ目は、夜のあいだにまた少しずれていた。脚立を出すほどではない。ポリバケツをひとつ下に置いて、落ちる滴を受けさせる。雨は夜明け前に少しだけ降ったらしい。コンクリートの床には、乾きかけた灰色の斑点が残っていた。溜まった量は多くない。けれど、ゼロではない、ということが朝の判断を少しだけ軽くする。軽くする、といっても、身体が軽くなるわけではない。ただ、その日やるべきことの順番が、まだ決められるというだけだった。
貯水タンクの蓋を開け、懐中電灯を斜めから差し込む。水面は見える。底のほうには細かい粒が沈んでいる。昨日、濾過布を替えるつもりで、そのままにした。今日こそ替える、と記録帳には書けるだろう。書いたことが実行されるとは限らない。だが、書かれもしなかったことは、たいていそのまま腐る。水も、計画も、身体も、たぶん同じだった。
蓋を閉めてから、周囲を見回す。屋上の手すりには、昨夜の風で飛んできた紙片が二枚引っかかっていた。ひとつは色の抜けたチラシで、もうひとつは何かの取扱説明書の切れ端だった。説明書のほうだけ拾ってポケットに入れる。紙は火にもなるし、裏が白ければメモにもなる。チラシは濡れて重く、指でつまんだだけで端が崩れた。落として、そのままにした。
階段を降りる途中、二階の踊り場で立ち止まる。毎朝同じ場所で、一度だけ耳を澄ますことにしている。上からは、まだ水が滴る音がかすかにする。下からは何も聞こえない。何も聞こえない、という確認のために耳を澄ます。建物は古いホームセンターの居抜きだった。売場の広い平面と、裏手の搬入口、工具や園芸資材を置くのに向いていた倉庫区画、天井の高さ、屋上への出やすさ、その全部が都合よく残っていた。都合がよすぎる建物は、たいてい別の誰かにも都合がいい。最初の一ヶ月は、それが気になって眠りが浅かった。いまでも浅いが、理由はもう少し増えている。
一階に降りると、朝の冷気が床の近くに残っていた。夜のあいだにコンクリートが吐き出した冷たさは、日の出のあともしばらく消えない。入り口の自動ドアは閉じたまま固定してある。外側から見れば、まだ機械が生きていて動きそうにも見えるかもしれないが、電源はとっくに切れている。ガラスの内側にコンパネを当て、さらに棚板で補強し、その前に肥料袋を積んだ。肥料はもう肥料としてはほとんど使わない。ただ重しとして便利だった。袋の表面には、かつての製品名がまだ読める。野菜の写真が印刷されていて、その色だけが妙に鮮やかだった。
まず正面入口の固定具を確かめ、次に搬入口の閂を見る。異常はない。金属音を立てないように触る癖は、もう必要なのかどうかわからない。それでも続けている。習慣は役に立たなくなってからのほうが、なかなか消えない。店の奥、元の事務所だった場所をいまは寝床と記録区画にしている。周囲を高い棚で囲い、ひとつだけ通路を残し、その先に机と簡易ベッドを置いた。机の横には記録帳を五冊、立てて並べてある。日誌、在庫、水と電気、探索、雑記。分ける意味がどこまであるのか、最近は少し怪しい。それでも分けているのは、分けることそのものが、まだ生活の側に自分を留めてくれる気がするからだった。
棚の確認に移る。缶詰は右列の上から二段目、乾物はその下、薬品と衛生用品はさらに奥、工具は左側、燃料は壁際。数を覚えているものもあるが、覚えているから確認しない、ということはしない。数えるためだけではなく、触るために確認する。缶のへこみ、紙箱の湿り、キャップの緩み、ラベルの剥がれ。世界は少しずつ駄目になっていくが、その速度は物ごとに違う。金属は意外に長くもち、ゴムは思ったより早く終わる。接着剤は黙って固まり、布は知らないうちに黴の匂いを抱え込む。薬はまだ使えるものが多いが、信じるしかない場面もある。信じるしかない、というのは、たいてい判断ではなく先送りだった。
昨日の記録では、飲用水の残量は七日。生活用を絞れば十日。雨が入れば少し延びる。延びるが、安心はしない。安心という感覚は、この場所では役に立たない。役に立つのは、順番だった。何を先に使い、何を後に回し、何をまだ使わないか。冷蔵庫は動かしていない。消費電力に見合わないし、中途半端に冷えた食材を持つことは、結局は贅沢ではなく危険になる。蓄電池の残量は昨夜の時点で六割少し。照明、無線、工具充電、記録用の灯り、それで足りる。足りるように使う。使えるから使う、という感覚はずいぶん前に抜けた。
店内の中央通路を歩くと、靴底が細かい砂を押し潰す音がする。もともと園芸用品の売場だったあたりには、空になったプランターや、口の裂けた培養土の袋がまだ積まれている。土は乾ききって、袋の隙間から床にこぼれ、灰のように広がっていた。そこを朝の光が斜めに差している。ガラスの高窓は何枚か割れていて、透明だった場所にひびと汚れが重なり、光だけが細く入ってくる。外の風景は見えない。光だけが、外がまだあることを知らせる。
最初にここへ入った日、広すぎる、と思った。ひとりで使うには広すぎる建物は、守る面積が大きすぎる。死角も多い。掃除の手間もある。だが、狭い場所には狭い場所の息苦しさがある。音が近すぎるし、匂いが溜まる。逃げ場がない。この建物には逃げ場がある。見失う場所もある。最初はそれが怖かったが、いまは助かっている。人間ひとりが自分を保つには、少しだけ広すぎる空間が必要なのかもしれなかった。視界の端に、自分の手の届かない棚や通路があること。それだけで、世界がまだ自分の内側だけでは完結していないとわかる。
事務所に戻り、机の上の記録帳を開く。日付を書くところで少し止まる。年も月も、たぶん合っている。日付も、たぶん。壁に掛けた古いカレンダーは先月のままで止まっていたが、それはめくるのを忘れたからで、時間が止まったからではない。そういう種類の勘違いは避けたかった。避けるために書く。書くために、まず今日を今日として置く。
「朝。夜間に弱い降雨。集水少量。継ぎ目ずれ。要補修。」
そこまで書いて、ペンを止める。インクの出が少し悪い。机の隅には、まだ使えるボールペンを十数本、芯の太さごとに輪ゴムでまとめてある。補充の見込みはないが、しばらくは足りる。足りるものはまだ多い。足りなくなるのは、だいたい別のものだった。順序とか、確信とか、自分がここで何を続けているのかという説明とか、そういうもののほうが先に減っていく。
入口のほうで、小さな音がした。
風か、何かが落ちただけかもしれない。けれど、その区別がつくまでは動かない、というほど鈍くもなれなかった。ペンを置き、机の横に立てかけてある鉄の棒を手に取る。武器というほどのものではない。工具棚の補修に使っていたパイプの切れ端だ。重さだけはある。重さがあるものは、意味がはっきりしている。意味がはっきりしているものは、この建物の中ではまだ少し信用できた。
通路に出ると、店内はさっきと変わらず静かだった。光の筋だけが少し移動している。肥料袋の影が伸び、床の砂の上に細い線を作っていた。音はもうしない。
それでも、しばらくその場に立っていた。
ここを拠点と呼び始めたのは、いつからだったか思い出せない。避難先、倉庫、店、建物、そういう言い方をしていた時期があったはずだ。拠点、という言葉には意志がある。ここを使う、守る、戻る、という意志だ。だが、その意志がまだ自分に残っているのかどうか、朝によって少し違う。
少なくとも今日は、まだある。
そう判断して、鉄の棒を持ったまま、入口のほうへ歩いた。
自動ドアの内側に積んだ肥料袋の脇から、外をのぞける細い隙間がある。そこに片目を寄せる。朝の駐車場は、いつものように広かった。広く、何も起きていないように見えた。白線は半分以上が擦れて消え、ひび割れたアスファルトの隙間から草が伸びていた。車は四台見える。入口に近い軽ワゴン、タイヤのないワンボックス、フェンス際の白いセダン、それから横転した小型トラック。どれも前からあった。昨夜の風で何かが動いたなら、まず紙か、軽い看板の切れ端か、その程度だろうと思った。
だが入口の前に、小さな段ボール箱がひとつ置かれていた。
昨日の夕方にはなかった。雨に濡れた跡がある。搬入口から誰かが投げ込める位置ではない。正面側から来て、ここに置いていったと考えるほうが自然だった。箱は靴一足分くらいの大きさで、ガムテープは剥がれかけている。表に文字はない。送り状もない。きれいでもないし、わざわざ残していく価値があるようには見えない。
鉄の棒を持ったまま、しばらく見ていた。罠、という言葉が先に出る。だが罠にしては手間が中途半端だし、悪意にしては雑だった。あえて見つけさせるために置いたというより、ただ置いていったように見える。それが逆に気持ち悪い。意図が読めないものは、敵意より処理が難しい。
建物の奥へ戻り、壁際の棚から双眼鏡を取る。片方のレンズに傷がある古いものだが、近距離を見るには足りる。再び隙間に目を寄せる。箱の表面に見覚えのある印刷があった。園芸用ホースの部品か何かの外箱らしい。底は湿って柔らかくなっている。生ものが入っているならもう匂うはずだが、ここまでは届かない。誰かが何かを置いていった。問題は中身より、その誰かがまだ近くにいるかどうかだった。
十分ほど待った。長くはない。だが、待つと決めた時間が過ぎるのはいつも遅い。駐車場に動くものはなかった。フェンスの向こうの道路でも、風に倒れた標識がたまにわずかに鳴るだけだった。遠くで鳥の声がした。犬の声は聞こえない。このあたりで犬の声を聞かなくなってからかなり経つ。見なくなったのは、もっと前だった。
入口から出ることにした。
正面からは出ない。店の裏手にある搬入口から外へ回り、建物の側面伝いに駐車場を見る。そういう手順にしている。決めたのはかなり前だが、まだ守っている。守っている、というより、変える理由がないから続いている。規則は信念より慣性で残る。
搬入口の閂を静かに外し、鉄板の扉を体ひとつ分だけ開ける。湿った外気が入ってくる。雨の匂いと、土の匂いと、古い金属の匂いが混ざっていた。朝の空気は冷たく、鼻の奥が少し痛む。扉を閉めずに、外壁に沿って進む。建物の側面には、元は園芸コーナーの屋外売場だったらしいスペースがあり、錆びたラックが何列か残っている。プラスチックの鉢が風で転がり、ひっくり返ったまま溜まった水に空を映していた。空は薄く、色が決まっていなかった。
角で一度止まり、駐車場のほうを見る。段ボール箱はそのままある。周囲に人影はない。横転したトラックの陰、料金看板の裏、フェンス際の雑草のかげ、順に視線を滑らせる。何も見えない。何も見えない、というだけでは安全にはならないが、近づく理由にはなる。
箱の手前まで行って、鉄の棒の先で軽く突く。中は軽い。音は鈍い。缶や金属ではない。さらに二度ほど突く。ガムテープのはがれた隙間から、白いものが見えた。布だった。布の下に紙がある。そこでやっと、昨日の音や、今朝の気配とは別の時間がこの箱に含まれていることがわかった。これはたぶん、夜のあいだに置かれたものだ。
しゃがみ込み、片手で箱を開く。中に入っていたのは、古びたタオルに包まれた小さな瓶が三本と、折りたたまれた紙一枚だった。瓶にはラベルがない。透明な液体が入っている。においはしない。薬品か、水か、燃料か、それだけでは判断できない。紙には鉛筆で字が書いてあった。
「裏の非常階段 上から二段目 まだ使える」
字は丁寧でも汚くもない。急いで書いた感じではなかった。ほかには何もない。名前も、印も、日付もない。
紙を見ながら立ち上がる。裏の非常階段は二階の外壁についた古い鉄階段で、途中から一段抜けていて、上り下りに少し気を使う。上から二段目、という書き方が気になった。普通なら下から数える。わざわざ上からと言うのは、見つけるべきものの位置が、置いた人間にとって上から見た順だったからかもしれない。つまりその人物は夜のうちに階段を上から降りてきた。あるいは、こちらが下から探すことを想定して、それでもなお上からと書いた。どちらにしても、建物の構造を知っている。
箱を持って中へ戻る。搬入口を閉め、閂を落とし、しばらくその前に立つ。背中のほうで店内の空気が動かずに溜まっている。広い建物のはずなのに、扉を閉めたあとの内側は急に狭く感じることがある。外から切り離されたからではない。自分がここに留まることを、自分で決め直したときにだけ、空間は狭くなる。
事務所に戻り、机の上に箱を置く。瓶は開けない。まず紙を記録帳の横に広げる。筆跡を見る。筆圧は一定している。震えていない。右利き。紙はどこにでもあるコピー用紙ではなく、ノートから破ったものらしい。端に青い罫線がある。いま、ノートを持ち歩いている人間は珍しくないが、多くもない。瓶のひとつを光にかざす。液体は透明で、濁りはない。振るとわずかに泡が立ち、すぐ消える。アルコールの可能性はある。水でも似たような動きをする。舐めて確かめる種類のものではなかった。
「裏の非常階段 上から二段目 まだ使える」
もう一度読む。何が、まだ使えるのかは書いていない。階段そのものなのか、隠してある何かなのか、段の裏に挟んだ何かなのか。言葉が足りないのか、こちらが足りないのかはわからない。ただ、こういう書き方は嫌いではなかった。必要以上に説明しない文は、昔から人を試す。読む側が同じ前提を持っているかどうか、それを静かに確かめてくる。
最初にここへ入ったとき、非常階段は使いものにならないと思った。赤錆がひどく、踏板の一枚は端が折れていた。だが屋上に上がる経路は正面階段だけでは不安で、数日かけて状態を見た。使える段と使えない段に白い塗料で印をつけ、手すりのぐらつく場所には布テープを巻いた。いまも非常階段は使える。ただし、慣れている人間にだけだ。あの紙を書いた誰かは、そのことも知っている。
机の前で考えていると、腹が鳴った。考える順番を誤ると、身体が先に文句を言う。朝食にする。缶詰の豆とクラッカー、湯を沸かして薄い茶。いつもより少し早いが問題はない。食べながら、紙を見える場所に置いておく。食事中に物を見るのは行儀が悪いが、いまさら行儀を気にする相手もいなかった。それでも食器の置き方だけは乱さない。缶の縁に口をつけず、皿に移す。湯をこぼしたらすぐ拭く。そういう無駄な手間が、生活と避難の境目をかろうじて保っている。
豆は甘すぎた。製造から何年経っているのか見ていない。見たところで参考程度にしかならない。クラッカーは湿気ていたが、食えないほどではない。茶は薄い。茶と呼んでいいかどうかも怪しいが、温かい色の湯というだけで朝に近いものになる。食べ終えたあと、皿を洗うか少し迷って、結局洗った。水は減る。しかし油を残すとあとで面倒になる。あとで面倒になることは、たいてい今のうちに片づけたほうがいい。その原則だけは、まだかなり信じていた。
非常階段を見に行く前に、店内をもう一周することにした。理由はふたつある。ひとつは、誰かが箱だけ置いていったのではなく、建物の様子を見ている可能性があること。もうひとつは、自分が急かされている感じを嫌ったことだ。知らない相手の残した言葉ひとつで朝の順番を変えると、その日ぜんぶの骨組みが少し軋む。軋みは小さいうちに戻したほうがいい。
中央通路を抜け、工具売場だった区画を通る。棚の金具はまだ丈夫で、高い位置まで物が置ける。ここに工具を集めているのは、重さのあるものを低い位置に、危険なものを目線より上に置けるからだ。ハンマー、バール、スパナ、ノコギリ、ドライバー、針金、ビス、結束バンド。文明は大量の留め具でできていたのだと、こういう棚を見るとわかる。板は釘で、管は継ぎ手で、箱は蝶番で、電気は端子でつながれていた。人間の社会も似たようなものだったのかもしれない。何か巨大な理念で立っていたわけではなく、もっと小さな固定具の束でかろうじて保たれていた。規則や挨拶や納期や住所や釣り銭や、そういうものだ。そのどれもが、一本のネジほどにも立派ではないのに、抜けると急に全体ががたつく。
奥の倉庫区画に入ると、空気が少し重い。ここには燃料と布と紙を置いてある。燃料といってもガソリンは少なく、主にはアルコール、固形燃料、乾いた木片、拾ってきたパレット材だ。火は便利だが、建物の内側で使うと匂いが残る。匂いは人の気配になる。人の気配は、人を呼ぶ。いまその因果がどれだけ生きているのか、正確にはわからない。それでも、誰も来なくなったからといって、こちらまで雑になっていい理由にはならなかった。
倉庫の隅に、最初の数週間だけ使っていた寝床の跡が残っている。床に段ボールを敷き、その上に毛布を重ねただけのものだった。事務所へ移る前、しばらくそこに寝ていた。壁が近く、出入口も近い。守りやすいと思った。だが眠れなかった。耳が通路の気配を拾いすぎたし、どこかで何かが落ちるたび、建物全体が自分のすぐ外で軋んでいるように感じた。いまの寝床は店の奥だ。入口から遠くなり、代わりに間に棚が何列も入る。その距離があるだけで、人間は眠れる。直接守れないぶん、直接怯えなくて済むのだった。
拠点は、防御のためだけに選ぶものではない。眠れるかどうかで決まる。眠れない場所では、判断が腐る。判断が腐ると、次に腐るのはたいてい水か火だ。そういう順番を、ここへ来てから覚えた。誰かに教わったわけではない。失敗して、まだ取り返せるうちに身体が覚えただけだ。
店内を一周しても異常は見つからなかった。高窓の割れたところから入った風で、薄いビニール片が一枚揺れている。朝の光はさらに奥へ伸び、棚の影を細長くしていた。何も変わっていないように見える時間がある。だが実際には、光の角度だけでなく、湿気も、匂いも、埃の落ち方も少しずつ変わっている。変わっていないのは、こちらがその変化を全部拾えないという事実のほうだった。
非常階段は建物の裏手にある。屋上へ上がるための主階段より狭く、鉄骨がむき出しで、踏板のすきまから下が見える。扉を開けると、金属と雨の冷えた匂いがした。外壁に沿って上を見る。二階の高さまで伸びた階段は、たしかに赤錆でまだらになっていた。上から二段目。つまり二階の踊り場から見て二段下。そこで一度止まり、目で探す。何も見えない。
上る。踏み出すごとに、鉄が小さく鳴る。あまり大きな音はしないが、鳴るというだけで背筋が少し硬くなる。二階の踊り場まで行き、そこから言われた段を見た。踏板の裏側に、布テープで何かが貼りつけてある。長方形の薄い包みだった。
手を伸ばして剥がす。中身は、短い鉛筆二本、未使用のボールペン一本、小さく折られた紙、それから薄い替刃だった。紙を開く。
「見えていた。
だから置いた。
使うなら使ってください。」
それだけだった。
見えていた。
その言葉をしばらく見ていた。箱のことではない。建物のことでもない。こちらのことだろう。見えていた、というのはたぶん、ここで暮らしていることが。屋上に水をためていることが。入口を塞ぎ、裏から出入りしていることが。あるいは、夜に灯りを最小限だけ点けていることが。見えていた、という報告に親切は混ざっていない。ただ事実だけがある。その乾いた感じに、妙な安堵があった。世界にまだ、観察してから書く人間がいるらしい。
包みを持って下りる前に、踊り場から駐車場の向こうを見た。道路は空で、信号は消えたまま、商店の看板は半分剥がれ、街路樹は枝を好きな方向に伸ばしていた。人間が手を入れなくなると、何もかもがすぐ自然に還るわけではない。まず中途半端になる。止まったものと伸びるものが同じ場所に残り、どちらの時間にも属さない景色ができる。街はそうやって曖昧になっていく。その曖昧さの中で、自分の拠点だけがはっきりして見える日もあれば、建物全体が周囲と同じ瓦礫の予備軍にしか思えない日もある。
今日は前者だった。
下りて事務所に戻り、鉛筆とボールペンを机に並べる。替刃は工具棚に入れる。紙二枚は記録帳のあいだに挟む。液体の瓶は開けないまま、保留の棚に置く。保留の棚には、名前のわからない部品、用途の読めない薬品、誰かの残したメモ、鍵のない鍵束、そういうものが集めてある。いずれ整理するつもりで、まだできていない。世界が読めなくなるのは、大きな出来事のせいではなく、こういう保留が少しずつ増えるからかもしれなかった。
記録帳を開く。さっきの朝の記録の続きに書き足す。
「正面入口前に小箱。
中に無記名の瓶三、紙一。
裏非常階段、上から二段目に文具・替刃。
“見えていた。だから置いた。”」
そこまで書いて止まる。誰かが見ていた。見ていたから置いた。その事実をどう解釈するかは、今日のうちに決めなくていい。決めなくていいことは、すぐに決めないほうがいい。だが、記録だけはしておく。記録すれば出来事は小さくなる。処理可能な大きさまで縮む。少なくとも、そう信じているあいだは。
昼までにやることを頭の中で並べる。濾過布の交換。継ぎ目の仮固定。瓶の液体の簡易確認。高窓のビニール補修。昼食は乾麺か米。米は減っている。乾麺のほうがいい。午後は発電量次第で電動工具を少し使えるかもしれない。夜は風が強くなるかもしれない。そうやって一日の形を作っていく。形があれば、まだ拠点でいられる。
机の前から顔を上げる。棚がある。通路がある。入口は塞いである。水は少し増えた。紙が二枚増え、筆記具が三本増えた。増えたものと減ったもの、その両方を抱えたまま、この建物は今日も建物として立っている。店でも倉庫でも避難先でもなく、いまは拠点だと呼ぶしかない場所として。
その言葉は、たぶん場所の名前ではない。
ここへ戻ると決めているあいだだけ、自分の側に発生する機能の名前なのだと思う。
外で何かがまた小さく鳴った。
今度は風だとわかった。
風の音と、それ以外の音の違いは、まだ聞き分けられる。
記録帳を閉じる。
立ち上がり、濾過布を替えるために倉庫区画へ向かった。
朝はもう終わりかけていたが、拠点の朝は、たいていそうやって少し長い。

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