第五章 日付

日付は、失われるとすぐ困るものではない。

少なくとも最初はそうだった。
水が切れれば困る。
食料が減れば困る。
火が使えなければ困る。
雨が入れば困る。
眠れなければ困る。
日付はそのどれにも直接は触れない。
今日が何月何日であるかを知らなくても、水は煮沸できるし、缶詰も開けられるし、扉の閂も閉められる。
だから最初は、日付のことを後回しにした。

後回しにしたものは、たいていあとで大きくなる。
日付もそうだった。

机の横の壁に、古いカレンダーが掛かっている。
紙質のいい、企業名の入った配布用のものだった。
山の写真が月ごとに変わる。
いま見えている写真は、たぶんもう季節に合っていない。
先月のまま止まっているのではなく、もっと前から止まっている可能性もある。
何度かめくり直し、今の月へ合わせたことはある。
だが、その合わせ方に自信がない。
月の位置を合わせても、その月が本当に今なのかは別の問題だった。

机の引き出しには、手帳が三冊ある。
ひとつは崩壊の前から使っていた仕事用の薄い手帳。
もうひとつは、この建物に来てから使い始めた大学ノート。
最後のひとつは、月の満ち欠けと天候だけを書きつけるための小さなメモ帳だ。
日付を確かめるときは、その三つを並べる。
仕事用の手帳には、昔の予定が書かれている。
会議、納品、電話、振込、訪問。
どれももう実現しない予定だ。
それでも日付だけはそこに残っている。
残っているというより、印刷されている。
印刷された日付は強い。
実際の生活から切り離されても、数字の形だけは自信ありげに並んでいる。

大学ノートのほうには、この場所へ来てからの日々の記録がある。
最初の頃はきちんとしていた。
年月日。曜日。天気。気温の目安。
そのあとに、採水量、移動距離、持ち帰った物、体調。
だが、数週間たつうちに曜日が空欄になった。
曜日を書く意味が薄れたからだ。
月曜日でも木曜日でも、やることに大差がない。
ごみ収集も来ない。
配達もない。
店の定休日もない。
休みという概念だけが、先に意味を失った。
休みが失われると、その反対側にあった平日もいっしょに痩せる。
曜日というものは、生活の中に差があるから成立していたのだと、そのとき初めて思った。

いまはもう、曜日の欄自体を書かない。
最初は罪悪感のようなものがあった。
自分で世界の骨組みを一本抜いたような感じがした。
だが実際には、抜いたのではなく、もうその骨が支えになっていなかっただけなのだろう。

日付の確認には、いくつかのやり方がある。
月の満ち欠け。
日の出と日の入りの長さ。
気温。
雨の周期。
植物の伸び方。
手帳の記録との照合。
どれも完全ではない。
だが完全な方法は、もう存在しない。
存在しない以上、いくつかを重ねて、ずれの小さいところを採用するしかない。

朝、机の上に三冊のノートを並べる。
カレンダーは壁に掛けたまま見る。
ノートの端は湿気で少し波打っていた。
紙は時間を抱え込む。
匂い、湿り、癖。
書かれた内容だけでなく、紙そのものが経過を記録している。
電子機器の画面ではそうはいかない。
そこに表示される日付は正確でも、経った時間の感触までは残らない。
紙のよさは、不正確さの中に手触りがあることかもしれなかった。

小さなメモ帳を開く。
そこには、丸と欠けだけで月の形が描いてある。
満月に近い日は丸、半月は縦に割り、細い日は鎌のように描く。
絵というほどではない。
ただの印だ。
それでも数週間続けると、周期が見えてくる。
前の満月から次の満月まで、おおよそこのくらい。
そのあいだに何度雨が降ったか。
冷え込んだ朝が何回あったか。
その重なりで、いまがだいたいどこにいるかを決める。

だいたい、という言葉がまた出てくる。
水でも、電気でも、空でも、時間でも、結局はそこへ戻る。
だいたい合っている。
だいたい足りる。
だいたいこのあたり。
文明は、だいたいを表に出さずに運用する仕組みだったのかもしれない。
誰かがどこかで誤差を吸収し、最終的にこちらには「正しい数字」だけが届く。
日付もそうだった。
暦は外から与えられ、こちらはそれに従っていればよかった。
いまは違う。
誤差ごと引き受けるしかない。

カレンダーの前に立ち、今の月をめくるかどうか少し迷う。
迷う理由は、月がわからないからだけではない。
めくるという動作には、今までの月を終わらせる感覚がある。
終わらせるには確信が要る。
確信のないまま月だけ進めると、時間のほうを置き去りにする気がした。
それでも、止まったままにしておくのもよくない。
止まった日付を見続けていると、いずれそこが現実のほうへ寄ってくる。
今日はまだこの月でいい、という気がしてしまう。
気がすることと、本当にそうであることの距離が、少しずつ縮まっていく。

結局、一枚だけめくる。
山の写真が変わる。
雪の稜線から、深い緑の渓谷へ。
季節感が合っているかどうかは自信がない。
だが、光の感じと今朝の空気には前より近い気がした。
近い気がする、というのもまた弱い根拠だ。
けれど根拠の弱さだけを理由に動かないでいると、時間はすぐに壁のほうで腐る。
腐るというのはおかしいかもしれない。
時間は腐らない。
だが、放置された日付には何か腐敗に近いものがある。
使われないまま紙に貼りついた数字は、生活と切れた札のようだった。

午前の作業の前に、記録帳へ日付を書く。
ここでいつも一度、手が止まる。
年。
月。
日。
その順に書いていくあいだ、毎回どこかに嘘が混じっているかもしれないと思う。
思うが、書く。
書かないと、もっと曖昧になる。
嘘の可能性がある数字でも、空欄よりはましだった。
空欄はすぐに広がる。
一日空くと、次の日も空きやすい。
二日空くと、その二日のあいだに何があったかを思い出す負担が増える。
負担が増えると、ますます書かなくなる。
空白は時間を食う。

今日は天気が安定している。
雲は薄いが光はある。
屋上のタンクの水位も、第二章の雨のおかげでまだ余裕がある。
高窓の補修をした第三章から、建物内の風の入り方も少し変わった。
そういう変化を記録するとき、本当は日付よりも前後関係のほうが重要なのかもしれない。
雨の翌日。
補修の翌々日。
瓶が届いてから三日目。
そのくらいのほうが、いまの生活には即している。
それでも年月日を書くのは、前後関係だけでは自分の外へ開けない気がするからだった。
今日が何かの翌日であるだけでは、時間は自分の内側で閉じる。
数字があると、まだ外の世界と同じ暦を共有しているようなふりができる。
そのふりが必要なのかどうかは、まだわからない。

昼前、外へ出たついでに空を見る。
太陽の高さ、影の長さ、風の冷たさ。
季節は数字よりも身体に入ってくる。
朝、靴を履く前の床の冷え。
水に手を入れたときの痛さ。
夕方の沈み方。
虫の気配。
そういうもので季節を測るようになると、月という単位が少しだけ遠くなる。
四月だから暖かいのではなく、今日はまだ朝が冷たい。
十月だから乾いているのではなく、今日は濡れたまま乾かない。
数字は便利だが、身体が受け取る時間とは別の場所にある。

それでも、数字には暴力的な強さがあった。
たとえば誕生日。
たとえば締切。
たとえば支払日。
たとえば賞味期限。
世界は数字で区切られていて、その区切りに従うことで多くのことが自動的に進んでいた。
いまはもうその多くが失われている。
誕生日を祝う相手もいない。
締切を待つ相手もいない。
請求も来ない。
期限切れの食品は、見て、嗅いで、食べて決める。
だが、数字の記憶だけは身体の中に残っている。
月末、という言葉を思い出すだけで、なぜか少し落ち着かない日がある。
金曜の夕方のような空気を感じる日が、何の根拠もなく訪れることもある。
生活が変わっても、時間の癖だけはしばらく残る。
癖は社会の亡霊みたいなものだと思う。

午後、机の引き出しから昔の手帳を取り出す。
崩壊の前の予定がいくつも残っている。
顧客名、地名、打ち合わせ時刻、振込予定、電話番号。
数字ばかりだ。
数字と固有名詞。
その組み合わせは昔の社会の縮図みたいだった。
誰が、どこで、いつ。
その三つが揃えば、たいていのことは進んだ。
いまは違う。
誰が、はぼやける。
どこで、は拠点の周辺に縮む。
いつ、はもっと曖昧になる。
残るのは、何を、どうやって、どこまで、のほうだった。

手帳の余白に、古い自分の筆跡がある。
「来週確認」
「月末まで」
「至急」
その言葉を見ていると、来週や月末や至急という概念が、以前はどれほど確かな足場だったかがわかる。
いまの生活にも急ぐことはある。
火が消えそうなら急ぐ。
傷が悪くなれば急ぐ。
雨が入れば急ぐ。
だがそれは時計や日付ではなく、状態によって決まる急ぎだ。
状態に従う生活は現実的だが、長く続けると時間の骨が少しずつ柔らかくなる。
骨が柔らかくなると、一日は一日であっても、いつの一日なのかが薄くなる。

夕方前、壁のカレンダーに小さく鉛筆で印をつける。
今日の日。
たぶん今日の日。
その印がまっすぐな列を作っていくのを眺める。
数日分、きれいに並んでいるところもあれば、空白が二つ続いているところもある。
空白の日は、書き忘れたのか、迷って書かなかったのか、もう覚えていない。
覚えていないことが増えると、人はすぐに不安になる。
だが、覚えていないことばかりを数えていたら、生活は前に進まない。
だから印だけを見て、列が続いていることのほうを採用する。
続いている。
少なくとも、この紙の上では。

日付を保つ理由は、誰かに証明するためではない。
誰も見ないかもしれない。
見たとしても、合っている保証はない。
それでも書くのは、日付がその日の内容を小さく囲ってくれるからだった。
囲いがあると、出来事は一日の中に収まる。
囲いがないと、昨日の雨と一昨日の不安と三日前の作業が、全部同じ曇った面に溶けていく。
溶けていくこと自体が悪いわけではない。
いずれはもっと大きく溶けるのだろう。
世界の輪郭も、自分の輪郭も。
だが、まだ少し先の話として扱えるあいだは、一日ぶんの囲いを置いておきたかった。

夜、机の手元灯の下で記録帳を開く。
今日の日付を見返す。
朝書いた数字が、夜になるともう少しだけ現実に近づいて見える。
一日がそこへあとから追いついたような感じがある。
数字が先にあり、出来事があとで埋まる。
そうやって日付は正しくなるのかもしれなかった。
正しいから書くのではなく、書くことで少しだけ正しくなる。

その考え方は危うい。
危ういが、いまの生活にはよく馴染む。
水もそうだ。
最初から安全だから飲むのではなく、煮沸し、濾し、記録し、使うことで、なんとか安全の側へ寄せる。
電気もそうだ。
最初から足りているのではなく、削り、回し、我慢することで足りる形にする。
時間もたぶん同じなのだろう。
最初から確かな日付があるのではなく、書き、めくり、照合し、疑うことで、だいたい合っている場所へ寄せる。

記録帳の最後に、一行だけ足す。

「今日を今日として置いた。」

少し変な文だった。
だがそのままにする。
日付とは、たぶんそういうことなのだ。
自然にある時間ではなく、置かれた時間。
壁に掛け、紙に書き、線を引き、今日と名づける。
そうしなければ、一日はすぐに別の日へ混ざる。
混ざったところから、また別の生き方が始まるのかもしれない。
だがまだ、そこまでは行かない。

手元灯を消す前に、壁のカレンダーをもう一度見る。
紙の端が少し反っている。
写真の緑は、暗がりの中で黒に近く沈んでいる。
数字だけが白く浮いている。
数字は冷たい。
だが、冷たいまま壁に残っていることで、今日という日もまだ少しだけ冷たく固まっていられる。

灯りを消す。
暗くなった部屋で、日付は見えなくなる。
見えなくなるが、消えはしない。
少なくとも今夜のあいだは、そう思って眠ることができた。

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