廃れた大型店舗跡の外観
第三部 溶解する私

第二十一章 触覚

布のざらつきは、朝になっても手のひらの内側に残っていた。それが布の記憶なのか、手の記憶なのか、すぐには分けられなかった。

触れればわかる、と思っていた。見ることは外れる。読むことは遅れる。名前はずれる。記録は、自分のあとから来るはずなのに、いつのまにか自分を先に動かす。

それでも、触れたものだけは近かった。閂の冷たさ。布の湿り。紙の端の硬さ。水の重さ。金属棒のざらつき。棚板のたわみ。自分の膝の熱。

それらは、言葉より前にあるように思えた。彼は朝、入口の閂に触れた。いつもの確認だった。

目で見る。閉まっている。手で触れる。冷たい。少し押す。動かない。

そこまでやると、ようやく確認した感じが出る。見るだけでは足りなくなっていた。

閉まっているように見えるものは、閉まっているかもしれない。だが、触れて動かないものは、少なくともその瞬間には動かない。

その差が大きくなっていた。

彼は閂をもう一度押した。動かない。少し強く押す。やはり動かない。

三度目に押したとき、金属が小さく鳴った。

きしむような音だった。

彼は手を離した。動かなかったことを確かめるために触れた。

だが、触れたことで音が出た。

音が出たことで、確認前にはなかったものが発生した。触れることは、確かめることであると同時に、状態を変えることでもある。

彼はそのことを、前から知っていたはずだった。

棚の物を数えれば、位置が少しずれる。

紙をめくれば、折り目がつく。

容器を持てば、水面が揺れる。

扉を押せば、蝶番が鳴る。

それでも、触れずには確かめられない。

彼は記録帳に書いた。

閂 動かず。触れると音。

そこまで書いて、少し迷う。

音がしたのは、確認による変化なのか。

もともと鳴る状態だったのか。

その差は小さい。だが、最近は小さい差が残る。

彼は横に書いた。

確認で変化。

その言葉は、嫌だった。

確認することで、確認したかった状態を失う。

午前中、彼は棚の紙を見た。

紙多い部屋から持ち帰った紙束の一部だった。湿りが進んでいたものは避け、比較的乾いたものだけを棚に入れていた。だが、棚に置いてからも紙は少しずつ変わる。

見ただけではわからない。

彼は一枚を指で挟んだ。

乾いている。

いや、乾いているというより、表面は乾いていて、内側が少し重い。

指先で押すと、紙がほんのわずかに戻り遅れる。

湿り。

そう書ける。

だが、彼が押した場所には、薄いへこみが残った。

湿りを確かめるために、紙を傷めた。

傷めたというほどではない。使えなくなるわけでもない。だが、触れる前と同じではない。

彼は紙を戻した。

戻した位置が、少し違う。

また触れる。

整える。

整えることで、前の状態は消える。

彼は棚の前で手を止めた。触れればわかる。ただし、触れたあとには、触れる前のものはもうない。

この当たり前のことが、急に重くなっていた。

彼は記録帳に書いた。

紙 表面乾き。内側重い。

さらに書く。

押し跡あり。

押し跡。自分がつけた跡だった。

確認対象の異常なのか、確認によってできた跡なのか、あとから見ればわからない。

彼は小さく、括弧を足した。

押し跡あり(自分)

自分。第二十章のあと、その言葉はまだ少し浮いていた。

自分、と書くと、跡をつけた者が固定される。固定されるが、やはり少し説明くさい。

彼は消さなかった。

午前の終わり、彼は自分の手を見た。

指先が荒れている。

紙、金属、布、湿った木、冷たい水。触れるものが増えるほど、手の表面に小さな変化が残る。ささくれ。薄い切り傷。黒い汚れ。爪の下の土。

手は、触れたものの記録だった。記録帳より先に、手が記録している。そう思った。

以前、身体が先に記録している、と書いた。あとで違うと思った。身体に記録されている、と直したかった。

今なら少しわかる。

身体は記録するのではない。触れたものに書き込まれる。外部が、皮膚に薄く残る。

彼は指先を洗った。

洗えば、汚れは落ちる。だが、全部は落ちない。

洗ったあとの指には、水の冷たさが残る。布で拭けば、布の粗さが残る。油の匂いは少し残る。小さな切り傷は、洗う前よりはっきりする。

きれいにする動作も、別の痕跡を残す。

彼は手を拭き、記録帳に書いた。

手 接触記録。

それは変な言葉だった。だが、近かった。

昼、彼は古い缶を開けた。

缶切りを使う。刃を当てる。金属の縁が少し抵抗する。力をかける。丸い蓋が少しずつ浮く。

手応えがある。手応え。彼はその言葉が、少し好きだった。

手が応えを受ける。

目で見るより、名前をつけるより、缶の状態が手に返ってくる。固い。まだ切れていない。滑る。開いた。

手応えは、かなり正直だった。

ただし、正直なのはその瞬間だけだ。

少し力を入れすぎると、刃が深く入り、缶の縁が鋭くなる。開いたあとには、切った跡が残る。缶はもう、触れる前の缶ではない。

開けるために触れるなら、それでいい。

問題は、確かめるために触れるときだった。

彼は缶を開け、食べられることを確認した。

匂い。

色。

粘り。

最後に、少しだけ舌に乗せる。

舌もまた触覚だった。

味というより、舌触り。酸っぱさより先に、粘りが来る。腐っているかどうかを、舌の表面で探る。

彼はすぐに飲み込まなかった。

少し待つ。

大丈夫そうだった。

大丈夫そう。この言葉も増えていた。

安全ではない。

危険でもない。

大丈夫そう。

身体が一度受け取って、拒まなかったというだけの判断だった。

彼は食事欄に書いた。

缶詰 大丈夫そう。

それは食品の記録なのか、身体の記録なのか、わからない。

午後、彼は地図のテープを貼り直した。

地図の端がまた浮いていた。紙が古くなっている。画鋲の穴も広がっている。テープの上からさらにテープを貼ると、その部分だけ厚くなる。

指で押さえる。

紙が少し波打つ。

貼る。

空気が入る。

爪で押し出す。

地図の線が、テープの光で少し見えにくくなる。

守るために触れ、触れることで読みにくくなる。

彼は地図の前で、手を下ろした。

地図は、見るためのものだった。

いまは触ることでしか維持できない。

触って維持すると、見ることが少し壊れる。

この順番は、あまりよくない。

だが、何もしなければもっと壊れる。

まし。

またその言葉だった。

彼は地図の端に小さく書いた。

補修で視認性低下。

それは正確だった。

正確だが、情けない文だった。

地図の余白に書かれたその文は、まるで地図自身が自分の読みにくさを報告しているように見えた。

夕方、彼は寝床の布を替えた。

湿りがある気がしたからだった。

見た目にはわからない。匂いも強くない。手で触れる。少し冷たい。布を押す。戻りが鈍い。

湿っている。

そう判断した。

布を剥がす。

下の板に触れる。

こちらも少し冷たい。

その冷たさが、湿りなのか、気温なのか、板そのものの性質なのか、わからない。

彼は手のひらをしばらく置いた。

置いているうちに、板の冷たさが手へ移る。

すると、最初の冷たさがわからなくなる。

触れ続けると、対象と手の差が縮まる。

確かめるためには触れたい。

だが、触れすぎると差が消える。

彼は手を離した。

手のひらに残った冷たさを見ることはできない。

感じるしかない。

彼は記録帳に書いた。

寝床布 湿り疑い。交換。
板 冷たい。原因不明。

原因不明。

それでも交換した。

触覚は、原因を明らかにするためではなく、動作を決めるために使われ始めていた。

夜、彼は小さな手鏡を手に取った。

前に、私と彼を映そうとしたものだった。縁は欠け、表面は曇っている。顔はうまく映らない。

彼は鏡を見る代わりに、縁を指でなぞった。

欠けた部分がわかる。

見るより先に、指がそこを見つける。

欠け。

鋭い。

危ない。

彼はその部分に布を巻こうとした。

巻けば、欠けは触れなくなる。

触れなくなれば、安全になる。

同時に、欠けた場所もわからなくなる。

彼は布を巻くのをやめた。

危ないまま残す。

そのかわり、記録帳に書いた。

手鏡 縁欠け。触れるとわかる。布巻かず。

触れるとわかる。

触れなければわからない。

触れると危ない。

三つが同じ場所にある。

彼は鏡を戻した。

戻すとき、少し位置を変えた。

取りやすいように。

危なくないように。

次に触れるとき、先に欠けを思い出せるように。

それは配置だった。

触覚のための配置。

見ればわかるように置くのではなく、触る前に身体が避けられるように置く。

世界の配置が、目ではなく手に合わせて変わっていく。

彼はそのことに気づき、少し怖くなった。

夜が深くなる前に、彼は入口をもう一度確認した。

閂に触れる。

冷たい。

押す。

動かない。

金属棒に触れる。

ざらつく。

木片に触れる。

軽い。

床に手をつく。

埃がつく。

ひとつずつ、触れていく。

まるで、目のかわりに手で拠点の輪郭をなぞっているようだった。

入口、棒、木片、床、壁、棚、記録帳、布。

触れるたびに、ここがある、と少しだけ思える。

だが、その思いは長く続かない。

手を離すと、すぐに薄くなる。

彼は記録帳の前に戻った。

ペンを持つ。

指先が少し痛む。

紙で切った場所か、金属に触れた場所か、乾燥か、わからない。

それでも書く。

触れると近い。
離すと薄い。

その二行を書いて、彼はしばらく見ていた。

近い。

薄い。

どちらも、距離の言葉だった。

ここ、これ、私、彼が揺れてから、今日は、その揺れを手で埋めようとしている。

ここにいる。

そう書くかわりに、入口に触れる。

これ、と書くかわりに、金属片を持つ。

私、と書くかわりに、膝の熱を見る。

彼、と書くかわりに、手の傷を見る。

触覚は、代名詞の代わりになり始めていた。

彼はその考えを、すぐには書かなかった。

書くと、また少し離れる。

触れているあいだだけ近いものを、言葉にすると遠くする。

それでも、書かないと残らない。

彼は、少し迷ってから書いた。

手で、代名詞の代わりをしている。

書いてしまうと、変な文だった。

だが、嘘ではない。

手で、ここを作る。

手で、これを決める。

手で、私の位置を確かめる。

そうしないと、言葉だけでは足りない。

彼はペンを置いた。

置くとき、指先が紙に触れた。

紙は少し乾いている。

その乾きで、今日のページが確かにそこにあると思った。

見ているだけでは足りない。

読んでいるだけでも足りない。

触れて、ようやく少し近づく。

ただし、触れたことで、紙には小さな皮脂の跡が残る。

見えないほどの跡。

だが、残っている。

彼はそのことを、もう記録しなかった。

きりがないからだった。

寝る前、彼は布の中で手を握った。

指先に、今日触れたものの感覚が少しずつ残っている。

金属の冷たさ。

紙の重さ。

布の湿り。

缶の縁。

地図のテープ。

鏡の欠け。

閂のざらつき。

それらは、もう外のものではない。完全に自分のものでもない。手の中に、外が少しずつ残っている。

彼は目を閉じた。

目を閉じても、手の中の外は消えなかった。

消えないことが、少し安心だった。

同時に、少し怖かった。

外は、触れたところから中に入る。

そう書きたくなった。

だが起き上がらなかった。

手を握ったまま、布の中でじっとしていた。

書かない言葉が、指先のあたりに残っている。

触れたものだけが近い。しかし、近づいたものは、もう外だけではいられない。彼はそのことを、手の中で確かめていた。

指を開くと、何も持っていないはずの手の中に、触れたものの残りだけが散っていた。