布のざらつきは、朝になっても手のひらの内側に残っていた。それが布の記憶なのか、手の記憶なのか、すぐには分けられなかった。
触れればわかる、と思っていた。見ることは外れる。読むことは遅れる。名前はずれる。記録は、自分のあとから来るはずなのに、いつのまにか自分を先に動かす。
それでも、触れたものだけは近かった。閂の冷たさ。布の湿り。紙の端の硬さ。水の重さ。金属棒のざらつき。棚板のたわみ。自分の膝の熱。
それらは、言葉より前にあるように思えた。彼は朝、入口の閂に触れた。いつもの確認だった。
目で見る。閉まっている。手で触れる。冷たい。少し押す。動かない。
そこまでやると、ようやく確認した感じが出る。見るだけでは足りなくなっていた。
閉まっているように見えるものは、閉まっているかもしれない。だが、触れて動かないものは、少なくともその瞬間には動かない。
その差が大きくなっていた。
彼は閂をもう一度押した。動かない。少し強く押す。やはり動かない。
三度目に押したとき、金属が小さく鳴った。
きしむような音だった。
彼は手を離した。動かなかったことを確かめるために触れた。
だが、触れたことで音が出た。
音が出たことで、確認前にはなかったものが発生した。触れることは、確かめることであると同時に、状態を変えることでもある。
彼はそのことを、前から知っていたはずだった。
棚の物を数えれば、位置が少しずれる。
紙をめくれば、折り目がつく。
容器を持てば、水面が揺れる。
扉を押せば、蝶番が鳴る。
それでも、触れずには確かめられない。
彼は記録帳に書いた。
閂 動かず。触れると音。
そこまで書いて、少し迷う。
音がしたのは、確認による変化なのか。
もともと鳴る状態だったのか。
その差は小さい。だが、最近は小さい差が残る。
彼は横に書いた。
確認で変化。
その言葉は、嫌だった。
確認することで、確認したかった状態を失う。
午前中、彼は棚の紙を見た。
紙多い部屋から持ち帰った紙束の一部だった。湿りが進んでいたものは避け、比較的乾いたものだけを棚に入れていた。だが、棚に置いてからも紙は少しずつ変わる。
見ただけではわからない。
彼は一枚を指で挟んだ。
乾いている。
いや、乾いているというより、表面は乾いていて、内側が少し重い。
指先で押すと、紙がほんのわずかに戻り遅れる。
湿り。
そう書ける。
だが、彼が押した場所には、薄いへこみが残った。
湿りを確かめるために、紙を傷めた。
傷めたというほどではない。使えなくなるわけでもない。だが、触れる前と同じではない。
彼は紙を戻した。
戻した位置が、少し違う。
また触れる。
整える。
整えることで、前の状態は消える。
彼は棚の前で手を止めた。触れればわかる。ただし、触れたあとには、触れる前のものはもうない。
この当たり前のことが、急に重くなっていた。
彼は記録帳に書いた。
紙 表面乾き。内側重い。
さらに書く。
押し跡あり。
押し跡。自分がつけた跡だった。
確認対象の異常なのか、確認によってできた跡なのか、あとから見ればわからない。
彼は小さく、括弧を足した。
押し跡あり(自分)
自分。第二十章のあと、その言葉はまだ少し浮いていた。
自分、と書くと、跡をつけた者が固定される。固定されるが、やはり少し説明くさい。
彼は消さなかった。
午前の終わり、彼は自分の手を見た。
指先が荒れている。
紙、金属、布、湿った木、冷たい水。触れるものが増えるほど、手の表面に小さな変化が残る。ささくれ。薄い切り傷。黒い汚れ。爪の下の土。
手は、触れたものの記録だった。記録帳より先に、手が記録している。そう思った。
以前、身体が先に記録している、と書いた。あとで違うと思った。身体に記録されている、と直したかった。
今なら少しわかる。
身体は記録するのではない。触れたものに書き込まれる。外部が、皮膚に薄く残る。
彼は指先を洗った。
洗えば、汚れは落ちる。だが、全部は落ちない。
洗ったあとの指には、水の冷たさが残る。布で拭けば、布の粗さが残る。油の匂いは少し残る。小さな切り傷は、洗う前よりはっきりする。
きれいにする動作も、別の痕跡を残す。
彼は手を拭き、記録帳に書いた。
手 接触記録。
それは変な言葉だった。だが、近かった。
昼、彼は古い缶を開けた。
缶切りを使う。刃を当てる。金属の縁が少し抵抗する。力をかける。丸い蓋が少しずつ浮く。
手応えがある。手応え。彼はその言葉が、少し好きだった。
手が応えを受ける。
目で見るより、名前をつけるより、缶の状態が手に返ってくる。固い。まだ切れていない。滑る。開いた。
手応えは、かなり正直だった。
ただし、正直なのはその瞬間だけだ。
少し力を入れすぎると、刃が深く入り、缶の縁が鋭くなる。開いたあとには、切った跡が残る。缶はもう、触れる前の缶ではない。
開けるために触れるなら、それでいい。
問題は、確かめるために触れるときだった。
彼は缶を開け、食べられることを確認した。
匂い。
色。
粘り。
最後に、少しだけ舌に乗せる。
舌もまた触覚だった。
味というより、舌触り。酸っぱさより先に、粘りが来る。腐っているかどうかを、舌の表面で探る。
彼はすぐに飲み込まなかった。
少し待つ。
大丈夫そうだった。
大丈夫そう。この言葉も増えていた。
安全ではない。
危険でもない。
大丈夫そう。
身体が一度受け取って、拒まなかったというだけの判断だった。
彼は食事欄に書いた。
缶詰 大丈夫そう。
それは食品の記録なのか、身体の記録なのか、わからない。
午後、彼は地図のテープを貼り直した。
地図の端がまた浮いていた。紙が古くなっている。画鋲の穴も広がっている。テープの上からさらにテープを貼ると、その部分だけ厚くなる。
指で押さえる。
紙が少し波打つ。
貼る。
空気が入る。
爪で押し出す。
地図の線が、テープの光で少し見えにくくなる。
守るために触れ、触れることで読みにくくなる。
彼は地図の前で、手を下ろした。
地図は、見るためのものだった。
いまは触ることでしか維持できない。
触って維持すると、見ることが少し壊れる。
この順番は、あまりよくない。
だが、何もしなければもっと壊れる。
まし。
またその言葉だった。
彼は地図の端に小さく書いた。
補修で視認性低下。
それは正確だった。
正確だが、情けない文だった。
地図の余白に書かれたその文は、まるで地図自身が自分の読みにくさを報告しているように見えた。
夕方、彼は寝床の布を替えた。
湿りがある気がしたからだった。
見た目にはわからない。匂いも強くない。手で触れる。少し冷たい。布を押す。戻りが鈍い。
湿っている。
そう判断した。
布を剥がす。
下の板に触れる。
こちらも少し冷たい。
その冷たさが、湿りなのか、気温なのか、板そのものの性質なのか、わからない。
彼は手のひらをしばらく置いた。
置いているうちに、板の冷たさが手へ移る。
すると、最初の冷たさがわからなくなる。
触れ続けると、対象と手の差が縮まる。
確かめるためには触れたい。
だが、触れすぎると差が消える。
彼は手を離した。
手のひらに残った冷たさを見ることはできない。
感じるしかない。
彼は記録帳に書いた。
寝床布 湿り疑い。交換。
板 冷たい。原因不明。
原因不明。
それでも交換した。
触覚は、原因を明らかにするためではなく、動作を決めるために使われ始めていた。
夜、彼は小さな手鏡を手に取った。
前に、私と彼を映そうとしたものだった。縁は欠け、表面は曇っている。顔はうまく映らない。
彼は鏡を見る代わりに、縁を指でなぞった。
欠けた部分がわかる。
見るより先に、指がそこを見つける。
欠け。
鋭い。
危ない。
彼はその部分に布を巻こうとした。
巻けば、欠けは触れなくなる。
触れなくなれば、安全になる。
同時に、欠けた場所もわからなくなる。
彼は布を巻くのをやめた。
危ないまま残す。
そのかわり、記録帳に書いた。
手鏡 縁欠け。触れるとわかる。布巻かず。
触れるとわかる。
触れなければわからない。
触れると危ない。
三つが同じ場所にある。
彼は鏡を戻した。
戻すとき、少し位置を変えた。
取りやすいように。
危なくないように。
次に触れるとき、先に欠けを思い出せるように。
それは配置だった。
触覚のための配置。
見ればわかるように置くのではなく、触る前に身体が避けられるように置く。
世界の配置が、目ではなく手に合わせて変わっていく。
彼はそのことに気づき、少し怖くなった。
夜が深くなる前に、彼は入口をもう一度確認した。
閂に触れる。
冷たい。
押す。
動かない。
金属棒に触れる。
ざらつく。
木片に触れる。
軽い。
床に手をつく。
埃がつく。
ひとつずつ、触れていく。
まるで、目のかわりに手で拠点の輪郭をなぞっているようだった。
入口、棒、木片、床、壁、棚、記録帳、布。
触れるたびに、ここがある、と少しだけ思える。
だが、その思いは長く続かない。
手を離すと、すぐに薄くなる。
彼は記録帳の前に戻った。
ペンを持つ。
指先が少し痛む。
紙で切った場所か、金属に触れた場所か、乾燥か、わからない。
それでも書く。
触れると近い。
離すと薄い。
その二行を書いて、彼はしばらく見ていた。
近い。
薄い。
どちらも、距離の言葉だった。
ここ、これ、私、彼が揺れてから、今日は、その揺れを手で埋めようとしている。
ここにいる。
そう書くかわりに、入口に触れる。
これ、と書くかわりに、金属片を持つ。
私、と書くかわりに、膝の熱を見る。
彼、と書くかわりに、手の傷を見る。
触覚は、代名詞の代わりになり始めていた。
彼はその考えを、すぐには書かなかった。
書くと、また少し離れる。
触れているあいだだけ近いものを、言葉にすると遠くする。
それでも、書かないと残らない。
彼は、少し迷ってから書いた。
手で、代名詞の代わりをしている。
書いてしまうと、変な文だった。
だが、嘘ではない。
手で、ここを作る。
手で、これを決める。
手で、私の位置を確かめる。
そうしないと、言葉だけでは足りない。
彼はペンを置いた。
置くとき、指先が紙に触れた。
紙は少し乾いている。
その乾きで、今日のページが確かにそこにあると思った。
見ているだけでは足りない。
読んでいるだけでも足りない。
触れて、ようやく少し近づく。
ただし、触れたことで、紙には小さな皮脂の跡が残る。
見えないほどの跡。
だが、残っている。
彼はそのことを、もう記録しなかった。
きりがないからだった。
寝る前、彼は布の中で手を握った。
指先に、今日触れたものの感覚が少しずつ残っている。
金属の冷たさ。
紙の重さ。
布の湿り。
缶の縁。
地図のテープ。
鏡の欠け。
閂のざらつき。
それらは、もう外のものではない。完全に自分のものでもない。手の中に、外が少しずつ残っている。
彼は目を閉じた。
目を閉じても、手の中の外は消えなかった。
消えないことが、少し安心だった。
同時に、少し怖かった。
外は、触れたところから中に入る。
そう書きたくなった。
だが起き上がらなかった。
手を握ったまま、布の中でじっとしていた。
書かない言葉が、指先のあたりに残っている。
触れたものだけが近い。しかし、近づいたものは、もう外だけではいられない。彼はそのことを、手の中で確かめていた。
指を開くと、何も持っていないはずの手の中に、触れたものの残りだけが散っていた。