廃れた大型店舗跡の外観
第三部 溶解する私

第二十章 代名詞

前日の記録の最後に書いた「私」という字は、朝になっても少し浮いて見えた。線の中に置いたはずなのに、その字だけが紙の上でこちらを向いていた。

最初に揺れたのは、「ここ」だった。拠点のことを、彼は長いあいだここ、と書いてきた。ここに戻る。ここで水を煮沸する。ここでは火気を残さない。ここを閉める。ここを出る。

ここ。短い言葉だった。便利でもあった。住所が使えなくなり、名称がずれ、拠点という名前さえ仮になってからも、ここ、だけはしばらく残った。

ここなら、説明がいらない。いま自分がいる場所。戻ってくる場所。水があり、棚があり、寝床があり、記録帳がある場所。

そういうものを、ここ、の二文字でまとめられた。だが、ある朝、彼は記録帳にこう書いた。

ここを確認。

書いてから、手が止まった。

ここを確認。

おかしい。

ここにいるのに、ここを確認する。入口を確認するならわかる。水を確認するならわかる。棚を確認するならわかる。だが、ここを確認する、とは何を見たのか。

彼はその文の横に、小さく書き足した。

入口、棚、水、火気。

それならわかる。しかし、最初に出てきた言葉は、ここ、だった。

入口でも棚でも水でもなく、ここ。

場所全体が、ひとつの点検対象になっている。

彼は記録帳を見た。

ここ、という言葉の周りが少し広すぎた。

以前のここは、自分の足の下にあった。いまのここは、彼の外側に置かれている。彼はそれを見回し、点検し、記録する。そこに少し距離がある。

距離があるから、ここ、と書けるのかもしれない。

彼はその考えをすぐには続けなかった。続けると、ここが遠くなる気がした。

次に揺れたのは、「これ」だった。

棚の上に置いた小さな金属片を、彼はしばらく見ていた。

何の部品だったかはわからない。どこかの留め具かもしれない。扉の一部かもしれない。工具の欠けた部品かもしれない。捨ててもよいように見えるし、あとで何かに使えるようにも見える。

彼は手に取り、記録帳に書こうとした。

これ

そこで止まった。

これ、ではあとでわからない。

だが、金属片、と書くのも違う。部品、と書けば用途があるように見える。破片、と書けば壊れたものになる。未判定、と書けば保留棚へ行く。読めないもの、と書けば、また別の棚に入る。

名前を決める前のものを、彼はこれと呼んだ。だが、これ、と呼べるのは、手の中にあるあいだだけだった。棚に戻せば、これではなくなる。あれになる。それになる。位置が変わるだけで、言葉が変わる。

その当たり前のことが、急に面倒になった。

彼は金属片を手に持ったまま、記録帳の欄を見た。

これ 金属片 用途不明

そう書けば足りる。足りるはずだった。だが、これ、という言葉の中には、手に持っている今の距離が入っている。金属片には、それがない。用途不明にもない。

書いた瞬間に、これ、は消える。

彼は、これ、の二文字だけを残し、あとは書かなかった。

あとから見れば、何を指したのかわからない。

それでも、そのときは、それが一番正確だった。

昼前、彼は水を飲んだ。

喉が乾いていた。水筒を取り、口へ運ぶ。少しぬるい。だが飲める。彼は二口飲み、記録帳に手を伸ばした。

私 水を飲む。

そう書いて、すぐに嫌になった。

私。

これまで、記録の中で彼はあまり私を書かなかった。

水、7割。

外出、北側。

回収、布1、鉛筆3。

入口、異常なし。

主語は不要だった。

誰が水を見たのか、誰が外へ出たのか、誰が回収したのか。書かなくても明らかだった。記録帳は彼のものだったからだ。しかし最近、主語がない文が少し不安になっていた。

水を飲む。

誰が。

自分が。

そう補わなければならない瞬間がある。

補うために私を書く。

だが、私と書いた途端、その文字が紙の上で少し浮く。

私。誰のことかはわかる。わかるが、手に馴染まない。

彼は、その一行に線を引いた。

水を飲む。

主語を消した。

消したあとで、余計に主語が見えた。

消された私。

線の下に残った二文字。

それは、書かなかった私よりも目立っていた。

彼はページを閉じかけ、また開いた。

消した私を見た。

自分の字だった。

間違いなく自分の字だ。

それなのに、その私が、少し彼を見ているようだった。

午後、彼は記録帳の古いページを開いた。

一年目には、私という字はほとんど出てこない。必要がなかった。文は短く、物と数字と動作で足りていた。

水。

棚。

外出。

回収。

異常なし。

そこには、自分がいなかったわけではない。むしろ、いなくても済むほど、記録帳全体が彼の場所だった。いまは違う。

記録帳の中に、自分がいる場所をその都度探さなければならない。

私と書くと、強すぎる。

書かないと、薄くなる。

彼は鉛筆を持ち、余白に試し書きをした。


自分

三つ並べた。

私。

自分。

彼。

私、は近すぎる。自分、は少し説明くさい。彼、は遠い。遠いが、記録には合う気もした。

彼は水を飲んだ。

彼は入口を確認した。

彼は空欄を見ていた。

書いてみると、文章は落ち着いた。落ち着いたことが、怖かった。

彼、と書けば、動作を外から見られる。

誰が何をしたのか、整理しやすい。水を飲んだ者、入口を確認した者、棚を動かした者。記録としては扱いやすい。

だが、その扱いやすさの中で、書いている本人が少し後ろへ下がる。

彼は、彼と書いた自分の手を見た。

手は変わらない。鉛筆の持ち方も変わらない。筆跡も彼のものだった。ただ、文の中に置かれた人物だけが、少し離れていた。

彼は余白の三語を消さなかった。

消すと、あとで何を試したのかわからなくなる。

残すと、試したことが残る。

どちらにしても残る。

ならば、残す方を選んだ。

夕方、彼は入口を確認した。

戻ってきて、記録帳を開く。

入口確認。

そこで止まる。

誰が。

またその問いが出る。

彼はためしに書いた。

彼は入口を確認した。

書いた瞬間、少し息が楽になった。

主語がある。

動作がある。

文として安定している。

しかし、その安定は自分を安心させるものではなかった。

文が安定するほど、彼はその文の外へ出る。

彼は入口を確認した。

そう書いた者は誰なのか。

彼なのか。

私なのか。

記録者なのか。

まだ名前のない、書く側なのか。

彼はその一文の下に、もう一行書いた。

書いたのは私。

そこまで書いて、また止まった。

書いたのは私。

なら、確認したのは誰か。

彼。

同じ者のはずだった。

同じ者であることを、いちいち確認しなければならないほど、文の中で距離ができている。

彼はペンを置いた。

代名詞は、短いくせに広すぎる。

私。彼。ここ。これ。それ。あれ。

どれも、小さい言葉なのに、世界の位置関係を決めてしまう。

ここ、と書けば場所が決まる。

これ、と書けば距離が決まる。

私、と書けば主体が決まる。

彼、と書けば視点が決まる。

決まるはずだった。だが、その決まり方が、いまは少し遅い。

言葉が場所を決める前に、場所が揺れる。

言葉が主体を決める前に、主体がずれる。

夜、彼は食事を取った。

食事、と書く前に、皿を見る。米、缶詰、水。味は薄い。喉は通る。肩は重い。膝は少し楽になっている。

彼は記録帳に書く。

食事。米、缶詰、水。

その下に、自然に手が動いた。

彼は半分残した。

書いてから、彼は皿を見た。

半分残っている。

それは事実だった。

彼が残した。

それも事実だった。

だが、その彼は、いま皿の前にいる自分より少し遅れている。

文の中の彼は、もう半分残した人間だ。

いまの彼は、その文を読んでいる。

時間が二つに割れる。

行動した者と、書いた者と、読んだ者。どれも彼だった。どれも彼であるはずだった。

彼はもう一行書いた。

彼、と書くと、少し遅れる。

その一文は、正確だった。

正確すぎて、少し嫌だった。

彼は記録帳を閉じずに、古い鏡を取り出した。

鏡というほどのものではない。道具箱の中にあった、小さな手鏡だ。縁は欠け、表面も曇っている。顔全体は映らない。目と鼻の一部、頬の暗い線が見えるだけだった。

彼は手鏡を持ち上げた。

映っているものを、私、と呼べるか。

呼べる。

そう思った。

では、彼、と呼べるか。

呼べる。

そうも思った。

その両方が成り立つことが、少し嫌だった。

鏡の中の顔は、彼でもあり、私でもある。

どちらでもあるということは、どちらか一つでは足りないということだった。

彼は鏡を伏せた。

伏せたあと、記録帳に書く。

鏡。私/彼、どちらも可。

可。

まるで使用可否の欄のようだった。

私、使用可。

彼、使用可。

そんなことを考えて、彼は少し笑いそうになった。

笑わなかった。

笑えば楽になりそうで、楽になるのが嫌だった。

深く考えずに済ませるための笑いは、最近あまり信用できない。

寝る前、彼はもう一度、今日の記録を読み返した。

ここを確認。

これ。

私、水を飲む。

水を飲む。

彼は入口を確認した。

書いたのは私。

彼は半分残した。

彼、と書くと、少し遅れる。

鏡。私/彼、どちらも可。

一日の記録の中で、呼び方が変わりすぎている。

同じ一日なのに、書いている者が一人に見えない。

彼は、欄外に線を引き、見出しを書いた。

代名詞

その下に、短く並べる。

私 近すぎる
自分 説明くさい
彼 遅れる
ここ 外から点検される
これ 手の中だけ
それ 棚に戻る
あれ 距離ができる

書いてから、しばらく見ていた。

これは記録なのか。

辞書なのか。

棚卸しなのか。

どれでもあった。

彼は代名詞を棚卸ししていた。

世界の物を分類してきたように、今度は自分を指す言葉を分類している。

そこまで来て、彼は気づいた。

代名詞を分類しているのは、誰なのか。

私か。

彼か。

記録者か。

その問いに答えようとして、手が止まった。

答えを書く場所がない。

いや、場所はある。

本文欄はまだ少し空いている。

しかし、そこへ何かを書くと、その答えもまた、どれかの代名詞を使わなければならない。

私が分類した。

彼が分類した。

自分が分類した。

どれも少し違う。

彼は結局、何も書かなかった。

何も書かないことで、誰が分類したのかも保留された。

その保留は、空欄に似ていた。

ただ、以前の空欄より少し深い。

以前の空欄は、出来事を待っていた。今の空欄は、主語を待っている。

彼は記録帳を閉じた。

閉じる直前、最後の行に目が止まる。

あれ 距離ができる

あれ。

その言葉は、遠いものを指す。

いま、彼にとって一番遠いものは何か。

外の町か。

昔の生活か。

他者か。

それとも、私か。

彼は答えを出さなかった。

手元灯を消す。

暗くなる。

暗くなると、ここ、という言葉も少し弱くなる。

見えない場所を、ここ、と呼ぶには、身体の位置を信じなければならない。

布の感触。床の硬さ。棚の匂い。入口の方から来る冷たさ。

それらを頼りに、ここを作る。彼は布の中で、声に出さずに言った。

ここにいる。

その文の主語はなかった。

主語がない方が、まだ保てる気がした。

ここにいる。

誰が、と続けないうちは、まだ壊れずに済んだ。

布のざらつきだけが、主語なしで手のひらに残っていた。