廃れた大型店舗跡の外観
第三部 溶解する私

第十九章 侵入

前日の身体には、外で触れたものがまだ少し残っていた。それは痛みでも疲れでもなく、置き場所だけを先に作ったもののようだった。

侵入したのは、人ではなかった。入口は閉まっている。閂も落ちていない。内側に立てかけた金属棒も昨日のままだった。床の木片も動いていない。

誰も入っていない。そう書くことはできた。だが、その一文だけでは足りなかった。

誰も入っていない、ということと、何も入り込んでいない、ということは違う。彼はその違いに、朝の記録を書く前から気づいていた。

いつもなら、水の欄から埋める。水量、煮沸、使用予定。それから電力、食事、入口、棚。順番は決まっていた。決まっていたから、考えずに手が動いた。

その朝、彼は水の欄を飛ばした。理由はない。いや、理由はあったのかもしれない。

水の容器は見た。残量もわかる。異常はない。書けるはずだった。だが手は、先に備考欄へ行った。

彼はそこに、こう書いた。

侵入なし。

書いてから、気づいた。

何を確認したのか。入口は見た。木片も見た。金属棒も見た。床も見た。外から入った者はいない。それなら、侵入なしでよい。よいはずだった。

だが、その言葉は、なぜか拠点の中だけを指していなかった。

記録帳の中。棚の順番。身体の動き。朝の手順。そういうものの内側に、別のものが入り込んでいる気がした。

彼は侵入なしの横に、細く線を引いた。消すのではない。保留するための線だった。

侵入なし ※物理

物理。

その注記を見た瞬間、かえって嫌になった。

物理と書かなければならないということは、物理ではない侵入を考えているということだった。

彼は記録帳を閉じた。

閉じても、言葉は閉じなかった。午前中、彼は棚の整理をした。

昨日と同じような作業だった。紐をまとめ、布を畳み、金具を小箱に分ける。手順はわかっている。身体もそれを覚えている。

だが、動作の途中で、ふと手が別の順番を取った。

いつもなら、紐を先にまとめる。

今日は、金具を先に箱へ入れた。

ただそれだけのことだった。

効率が悪いわけでもない。危険でもない。間違いでもない。金具を先に入れても、作業は進む。

それでも彼は、手を止めた。

なぜ先に金具を触ったのか。自分で決めたのか。身体がそう動いたのか。記録帳の空欄分類のせいか。昨日見た棚の位置のせいか。

理由はいくつも作れる。

理由が多すぎると、どれも少し違う。

彼は小箱を置き、作業台の端に手をついた。

これは、誰かの動作ではない。

そう思った。

誰かが彼の手を動かしているわけではない。そんなことはない。自分の手だ。自分の指だ。自分の肩の重さであり、自分の膝の鈍さであり、自分の呼吸だった。

だが、その動作の由来だけが、少し外れている。

自分の動作なのに、自分の中から始まった感じが薄い。

彼は記録帳を開き、備考に書いた。

棚整理。順序変化。

そこまで書いて、少し考える。

金具先。

短すぎる。

だが、長く書くと説明になる。説明すればするほど、あとから作った理由に見える。

彼はそのままにした。

金具先。

その言葉は、奇妙に冷たかった。

昼前、彼は水を飲んだ。

喉が貼りついていた。水を飲む。それだけのことだった。だが、水を口に含む前に、彼は記録帳の水欄を見た。

まだ空いている。

朝、飛ばした欄だった。

彼は水を飲まずに、一度ペンを取った。

水量を書く。

7割弱。

煮沸済み。

使用可。

書いてから、水を飲んだ。

水を飲むために記録したのか。記録するために水を飲むのを遅らせたのか。どちらでもあるようで、どちらでもない。

以前なら、喉が渇けば水を飲んだ。あとで記録する。必要なら量を見る。そういう順だった。

いまは、欄が空いていることが先に来る。

空欄があると、水を飲む動作の中へ入り込む。

彼は水を飲みながら、喉ではなく、さっき書いた七割弱という文字を考えていた。

水の冷たさは、口の中にある。

しかし意識は紙の上にある。

身体と記録が、同じ動作を別々に引っ張っていた。

午後、彼は入口を確認した。

毎日の確認だった。閂を見る。金属棒を見る。木片を見る。床の埃を見る。異常がないことを確かめる。

ただ、今日は確認の前に、記録帳を見た。

朝の備考欄。

侵入なし ※物理。

その文字が目に入る。

彼は入口へ行く。

つまり、入口を見たかったから行ったのではない。

侵入なしと書いたから、もう一度見に行った。

書いた言葉が、確認を命じていた。彼は閂に触れた。

冷たい。

動いていない。

金属棒も倒れていない。

木片も動いていない。

床の埃にも、新しい跡はない。

それでも、確認し終えた感じがしなかった。

物理と書いたせいだ。

物理以外の侵入については、何も確認できていない。

彼は少し笑いそうになった。

物理以外の侵入を、入口で確認できるはずがない。

できるはずがないのに、身体は入口へ向かった。

習慣が、言葉に引っ張られている。

言葉が、習慣の中へ入っている。

これが侵入なのかもしれない。

そう思いかけて、やめた。

まだ早い。

名づけると、それがあることになる。

名称について考えていたころ、何度もそう思ったはずだった。

名づけると、扱える。

だが、名づけると、消えにくくなる。

彼は記録帳へ戻り、侵入なしの下に書いた。

確認は入口では足りない。

書いたあと、すぐに消したくなった。

足りないなら、どこを確認すればよいのか。

棚か。

記録帳か。

手順か。

身体か。

自分の文か。

確認すべき場所が増えすぎる。

彼はその一行を消さず、線だけ引いた。

線を引いたことで、その文は前より目立った。

夕方、彼は古い記録を見返した。

一年目の字は、今より少し大きい。線がまっすぐで、数字も揃っている。水量、食料、工具、外出。整っている。

整っているが、どこか他人の記録のようにも見えた。

昔の自分だからではない。

文の呼吸が違う。

一文が短く、迷いが少ない。

水、7割。外出、南側。回収、乾電池3、布1。異常なし。

それで足りていた。

彼は、そのころの記録の隣に、今の記録を並べてみた。

紙の余白に書き込みが多い。未確認、未判定、保留、身体理由、詳細空欄、物理、出所不明。括弧と注記と線が増えている。

昔の記録には、世界があった。

今の記録には、記録への注釈がある。

彼はその違いに、少し疲れた。

疲れた、という言葉もまた、どこから来たのかわからない。

身体の疲れか。

記録の疲れか。

読むことの疲れか。

彼は古いページの一行を指でなぞった。

異常なし。

その言葉がうらやましかった。

異常なし。

何も疑っていない。

いや、疑っていなかったわけではない。疑う必要がまだ少なかったのだ。異常があるかないかを、外の状態として見られていた。

いまは違う。

異常が外にあるのか、記録の中にあるのか、身体の中にあるのか、判断の順序の中にあるのか、分けられない。

彼は古いページを閉じた。

閉じるとき、紙の端で指を少し切った。

ほんの浅い傷だった。

血がにじむほどではない。皮膚の表面が細く白くなっただけだ。

それでも、彼はすぐに傷を洗った。

水を使う。

布を出す。

消毒液を見る。

使うほどではない。

使わないと判断する。

その一連の動作は早かった。

身体は、まだ傷への手順を覚えている。

だが、洗い終えたあと、彼は記録帳に戻って、何を書けばよいのか迷った。

紙で指を切った。

そう書けばいい。

だが、それだけではない気がした。

古い記録を見た。

異常なしをなぞった。

紙で指を切った。

その順番が、妙に意味を持っているように見える。

意味はない。

ただの紙の端だ。

そう思った。

だが、ただの紙の端が、彼の身体に線を入れた。

記録帳が、彼に傷をつけた。

その表現が浮かび、彼はすぐに嫌になった。

記録帳が傷をつけたのではない。

自分が不注意だっただけだ。

紙の端で切っただけだ。

しかし、文はもう頭の中にあった。

記録帳が、彼に傷をつけた。

彼はそれを書かなかった。

書かないと決めた。

だが、書かなかった文は、消えなかった。

夜、彼は食事を取った。

いつもと同じ量のはずだった。だが、半分ほどで手が止まった。腹が空いていないのか、疲れているのか、喉が受け付けないのか、わからない。

彼は食事欄に書いた。

米、缶詰。半分。

その横に、書きかける。

理由

そこで止まった。

食べなかった理由を書く必要があるのか。

必要はある。

食べる量が減れば、体調に関わる。翌日の判断にも関わる。食料管理にも関わる。書いておくべきだ。

だが、理由がない。

あるいは多すぎる。

身体。

記録。

気配。

疲労。

紙で切った指。

古い記録。

入口確認。

全部が少しずつ関係しているようで、どれも決定的ではない。

彼は理由の横を空けた。

理由欄を作ってしまったことを後悔した。

空欄がまた一つ増えた。

空欄が行動を決めることは、すでにわかっていた。

いまは、その空欄を作るための問いが、彼の動作に入り込んでいる。

なぜ食べないのか。

なぜ順番を変えたのか。

なぜ入口を二度見たのか。

なぜ古い記録を開いたのか。

なぜ紙で指を切ったことが、ただの不注意に思えないのか。

問いが増える。問いは、答えを求める形をしている。だが、答えを出すためではなく、生活の中に入り込むためにそこにあるようだった。

彼は食器を洗った。

洗う水は少なめにした。手順は変わらない。水をかける。布で拭く。もう一度流す。伏せる。

伏せる場所が、いつもより少し右にずれた。

彼はすぐに気づいた。

気づいたが、直さなかった。

直さないで、見た。

ずれた皿。

それだけだった。

それだけのものを、彼はしばらく見ていた。

誰かが置いたわけではない。

自分が置いた。

それはわかっている。

それでも、いつもの位置ではない皿は、自分の動作の中に入り込んだ別の何かのように見えた。

私ではないもの。

その言葉が浮かんだ。

彼は、それを書かなかった。

まだ書かない方がいい。

そう思った。

書かない方がいいもの、という分類がまた動き出す。

書かないと決めたことで、かえってその言葉は強くなった。

寝る前、彼は入口を確認した。

一度でよかった。

だが、戻ってからもう一度見に行った。

理由はわからない。

見落としがあると思ったわけではない。音がしたわけでもない。身体が止めたわけでもない。

ただ、最初の確認が自分の確認だったかどうか、少し信じられなかった。

この感覚は新しかった。

入口が信じられないのではない。

自分の確認が信じられない。

彼は二度目の確認をした。

閂。金属棒。木片。埃。

異常なし。

そう書ける。

だが、異常なしと書けば、三度目を見に行きたくなる気がした。

なぜなら、異常なしと書いたのは、二度目の彼だからだ。

一度目の彼とは違う。

そう考えた瞬間、彼は自分の考えを止めた。

一度目の彼。二度目の彼。そんなふうに分けてはいけない。

分けてはいけないと思う時点で、もう分かれている。

彼は入口から戻り、記録帳を開いた。

ペンを持つ。

手が少し震えている。

寒さかもしれない。

疲れかもしれない。

何かを書きたくないからかもしれない。

彼は短く書いた。

確認2回。
異常なし。

その下に、少し間を空けて書く。

1回目を信じなかった。

書いてから、呼吸が浅くなった。

これは、書いてしまった方の言葉だった。

もう戻せない。

彼は、その文に線を引こうとしてやめた。

線を引いても消えない。

消えないどころか、残る。

ならばそのままにするしかない。

そのままにする、ということが最近増えていた。

空欄も、ずれた皿も、書いてしまった文も、動作の由来がわからない手順も、すべてそのままにする。

そのままにされたものが、生活の中に溜まっていく。

それは散らかりとは違った。

物は片づいている。

棚も、入口も、水も、食器も、ほとんど元の場所にある。

乱れているのは、物の位置ではない。動作の出どころだった。

何を、なぜ、自分がしたのか。

そこに小さな空きができ、その空きに、私ではないものが入る。

彼はようやく、その言葉を書いた。

私ではないものが、動作の中に入る。

その一行は、説明のように見えた。

だから嫌だった。

だが、今日はそれしか書けなかった。

彼は記録帳を閉じた。

閉じる前に、もう一度だけ入口の方を見た。

行かなかった。

行かないことを選んだのか。身体が動かなかったのか。記録にこれ以上従わなかったのか。わからない。

ただ、彼はそこに座ったままだった。

侵入は、入口から来なかった。

閉じた扉の向こうからでもない。

それは、彼が自分の動作を自分のものとして扱えなくなる、そのほんの小さな隙間から入ってきた。

その隙間は、鍵では閉じられなかった。

私ではないもの、と書いたあと、彼はしばらく「私」という字だけを見ていた。