廃れた大型店舗跡の外観
第三部 溶解する私

第十八章 身体

前日に机へ置いた紙の重さは、腕の奥にまだ少し残っていた。痛みというほどではない。ただ、何かを置いたあとにも、置いたものが身体の中で少し続いていた。

先に気づくのは、いつも身体だった。水が足りない、と考えるより前に、喉の奥が少し貼りつく。寒い、と書くより前に、指先が曲がりにくくなる。重い、と判断するより前に、肩の奥がゆっくり沈む。

記録帳に書く言葉は、たいてい遅れて来た。以前は、それでよかった。

身体に起きたことを、あとから言葉にして、日付の中へ置く。痛み、疲れ、睡眠、空腹。そう書けば、身体もまた管理できるものの一つになると思っていた。

だが最近は、順番が逆になっている。身体が先に決める。記録は、そのあとで追いつく。

朝、彼は水を見に行く前に、膝の重さで天気を考えた。

まだ外は見ていない。高窓の光も弱い。雨の音もしない。だが、膝の奥が鈍く、曲げるたびに湿った布を挟んでいるような感じがあった。

雨かもしれない。そう思った。天気を知るために空を見るのではなく、身体の内側に出た鈍さを、外の天候へ結びつける。

その結びつきが正しいかどうかはわからない。

彼は窓際へ行った。

外は曇っていた。

雨は降っていない。

曇り。

それだけなら、膝とは関係ないかもしれない。昨日、階段を上り下りしたせいかもしれない。寝るときの姿勢が悪かったのかもしれない。湿気かもしれない。冷えかもしれない。

原因はいくつもある。それでも彼は、記録帳の天気欄に「曇」と書いたあと、体調欄に小さく書き足した。

膝 鈍い。

それだけだった。

前なら、体調欄は補助だった。熱、傷、眠気、腹痛。異常があれば書く。なければ空ける。身体は、生活を続けるための条件の一つにすぎなかった。

いまは違う。

膝が鈍いことが、今日の行動範囲を決める。

肩が重いことが、持ち帰る量を決める。

指が冷えていることが、工具を使う順番を変える。

眠気が残っていることが、地図を見る時間を短くする。

身体は、欄の一つではなくなっていた。判断の前に立つものになっていた。

彼は東棚の下段から布袋を出した。

今日、外へ出るつもりだった。地図に「早め」と書いてから、紙多い部屋へもう一度行くべきかどうか、まだ決めていない。紙は湿り始めている。早め、と地図に書いた。早め、と書いた以上、遅らせるほど気になる。

だが、布袋を持ち上げた瞬間、肩が嫌がった。

痛い、というほどではない。ただ、重さが先に来た。中身は空に近い。水筒、小さな刃物、布、予備の紐、薄い手袋。重いはずがない。それでも、肩が重いと言った。

彼は袋を下ろした。

地図では行ける。

記録では早めと書いてある。

紙は必要だ。

だが、肩が行きたがらない。

その言い方をした自分に、少し抵抗があった。

肩が行きたがらない。

身体の部位を、自分とは別のもののように扱っている。

しかし実際には、そう感じた。

彼が行きたいのか、記録が行けと言っているのか、肩が止めているのか。その三つを、すぐには分けられなかった。

彼は記録帳を開いた。

外出欄に線を引きかけて、止める。

出るか、出ないか。

地図を見る。天気を見る。水量を見る。身体を見る。

最後に身体を見る、という順番だったはずが、今日は身体を最初に見ている。

彼は外出欄に、まだ何も書かなかった。

代わりに、備考欄へ書いた。

肩重い。紙回収延期。

延期。その言葉は、少し嫌だった。延期と書くと、予定がまだ生きているように見える。明日やる。後日やる。そのうちやる。そういう未来があるように見える。

だが、本当に延期なのか。

単にやらなかっただけではないのか。

彼は延期の横に、小さく括弧を書く。

肩重い。紙回収延期(身体理由)

身体理由。変な言葉だった。変だが、必要だった。

天候理由、残量理由、経路理由、危険理由。これまでも、外出しない理由はいくつかあった。だが、身体理由と書くと、身体が別の機関のように見える。

彼はその欄をしばらく見ていた。

身体理由。

その言葉は、少し役所の書類のようだった。

誰に提出するわけでもない。

それでも、彼は理由を書いていた。

理由を書かないと、自分が怠けたのか、判断したのか、身体に止められたのかがわからなくなる。

午前のうちに、彼は拠点の中だけを動いた。

水の器具を洗い、棚の下の埃を払う。火気の跡を見る。入口の閂に触れる。地図のテープが剥がれていないか確認する。

一つ一つは小さい。だが、身体はその小ささを同じようには受け取らない。

しゃがむと膝が重い。

立ち上がると腰が遅れる。

水の入った容器を持つと、手首に細い痛みが走る。

棚の上段へ手を伸ばすと、肩の奥が固まる。

彼は、それらを一つずつ記録しようとした。

膝 鈍い。
腰 遅い。
手首 細い痛み。
肩 固い。

並べてみると、自分の身体が部品の一覧のように見えた。

膝、腰、手首、肩。水処理剤、紐、布、釘、油性ペン。

同じように列挙できてしまうことが、少し嫌だった。

身体は在庫ではない。そう思った。だが、在庫のように扱わなければ、すぐに無理をする。

どこが使えるか。どこが弱っているか。どこを休ませるか。どこを使わないか。それを見なければ、外へ出る判断ができない。

身体もまた、残量になっていた。

彼はその一文を書こうとして、やめた。

書くと強すぎる。

代わりに、体調欄の隅に小さく書いた。

使用注意。

何を、とは書かなかった。

身体全体のことだった。

昼、彼は食事をした。

乾いた米と、缶詰の残り。味は薄い。水を多めに使うか迷ったが、迷うほどのことではなかった。飲み込みやすさを優先した。

飲み込みやすさ。

以前は、食料を量と保存性で見ていた。

日持ちするか。腹にたまるか。火を使うか。水を使うか。容器を洗う必要があるか。

いまは、喉を通るかどうかが先に来る。

喉が先に判断する。彼はゆっくり食べた。

食べ終わったあと、記録帳に食事内容を書く。

米、缶詰、水。

それだけでよかった。

だが、手が少し迷い、横に書き足す。

通りやすい。

食べ物の評価なのか、喉の状態なのか、わからない。

どちらでもあった。

身体の記録は、対象と自分の境目を曖昧にする。

硬い、と書く。

硬いのは食べ物か。歯か。顎か。

冷たい、と書く。

冷たいのは水か。手か。部屋か。

重い、と書く。

重いのは袋か。肩か。気分か。

彼は、そうした言葉がだんだん怖くなっていた。

一語で済む言葉ほど、どちら側にあるのかわからない。

午後、彼は短い外出をした。

遠くへは行かない。拠点の周囲だけを見る。北側の倉庫へは行かない。紙多い部屋にも行かない。高架の影まで出て、風の強さを見て戻るだけにする。

そう決めた。

外へ出ると、空気が少し湿っていた。

湿っている、と感じたのは肌だった。

壁の色でも、地面の濡れでも、空の暗さでもない。首の後ろにまとわりつく薄い冷たさが先に来た。

彼は立ち止まり、袖を少し下げた。

袖を下げるという動作が、天気の記録より先に出る。

体温を守るための動作が、外の判断になる。

彼は高架の影まで歩いた。

風は弱い。

しかし弱い風でも、汗をかいた背中には冷たかった。彼は汗をかいていることに、そこで気づいた。たいした距離ではない。荷物も軽い。それなのに、背中に薄く汗がある。

身体の反応は、距離と合わなくなっている。

彼は地図を出さなかった。

出す必要がない場所だった。

だが、代わりに自分の息を数えていた。

四歩で吸う。

四歩で吐く。

少しずれる。

また数える。

歩幅が短くなる。

息の数は、地図より正直だった。

正直というより、逃げ場がなかった。

地図なら古いと言える。天気なら変わったと言える。道なら塞がったと言える。

息は、いまここにある。

彼は高架の柱に手をついた。

冷たい。

その冷たさで、少し落ち着いた。

以前、記録帳に書いた言葉を思い出した。

確かなものは、触れたものだけに近づいている。

しかし今日は、触れたものだけでなく、触れている身体の方も確かではなかった。

柱が冷たいのか。

手が熱いのか。

その差がわからない。

彼は手を離した。

手のひらに、柱の冷たさが少し残る。

残った冷たさは、もう柱ではない。

身体の中に入った外部だった。

そう考えた瞬間、彼は少し嫌になった。

外部は、触れると内側に残る。

拠点へ戻る途中、彼は小さな段差につまずいた。

倒れはしなかった。

足先が引っかかり、身体が一瞬前へ流れただけだった。すぐに持ち直した。何も起きていないと言えば、何も起きていない。

だが、その一瞬の遅れが残った。

足を上げたつもりだった。

上がっていなかった。

目では段差を見ていた。

身体は、段差を越えきっていなかった。

彼は振り返り、段差を見た。

低い。

以前なら気にもしなかった高さだった。

彼はそこに印をつけようか迷った。

地図に書くほどの場所ではない。

道の危険としては小さすぎる。

だが、今日の身体には引っかかった。

彼は地図ではなく、記録帳に書いた。

高架手前 段差。足遅れ。

足遅れ。

また変な言葉だった。

だが、そうとしか言えなかった。

拠点に戻ると、彼は靴を脱ぎ、足を見た。

怪我はない。

爪も割れていない。足首も腫れていない。異常なしと書ける。

しかし、異常なしという言葉は、もう信用しにくい。

異常がないのではなく、見える異常がないだけだった。

彼は足首を回した。

少し硬い。

その硬さをどう扱うか。

怪我ではない。

病気でもない。

疲労かもしれない。

老化という言葉が浮かび、彼はすぐに消した。

消したが、消えなかった。

老化。

その言葉は、世界の崩壊とは別の時間を連れてくる。

世界が終わっても、身体は身体の時間で進む。

食料、水、電力、地図、名称。それらとは関係なく、膝は鈍くなり、目は疲れ、手は冷え、足は遅れる。

世界の終わりは、身体の終わりを止めてくれない。

彼はそのことに、少し驚いた。

驚くようなことではない。

それでも、驚いた。

夜、彼は記録帳を開いた。

体調欄が足りなかった。

膝、肩、手首、喉、背中、息、足。書くことが多い。多すぎる。これらを全部書けば、今日の記録は身体の記録になる。

それでいいのか。

今日、何をしたのか。

水を見た。

食べた。

少し外へ出た。

高架まで歩いた。

戻った。

それだけだった。

だが、身体の中では、もっと多くのことが起きていた。

膝が鈍く、肩が重く、喉は通りやすさを求め、背中は湿り、息は数えられ、足は遅れた。

外の出来事より、身体の出来事の方が多い。

彼は、そのことをどう記録すればよいのかわからなかった。

本文欄に書く。

身体が先に記録している。

書いてから、手が止まった。

身体が記録する。

それは比喩なのか。

膝の鈍さ、手の冷たさ、喉の貼りつき、息の乱れ。確かに、それらはどこかに残る。紙に残る前に、身体に残る。

記録帳はそのあとで、それを写す。

しかし、写したときにはもう少し違っている。

痛みは、痛かった、になる。

重さは、重かった、になる。

冷たさは、冷たかった、になる。

過去形になるだけで、身体から少し離れる。

彼は、過去形が嫌になった。

体調欄の端に、現在形で書いてみる。

膝が重い。
手が冷たい。
喉が貼る。

書いているあいだにも、それらは変わっていく。

膝の重さは少し減る。

手は手元灯の熱で温まる。

喉は水を飲めば変わる。

現在形も、すぐ古くなる。

彼は笑いそうになった。

地図だけではない。

記録だけではない。

身体も遅れる。

身体が先にあるように見えて、その身体を掴む言葉は、やはり少し遅れる。

彼はペンを置いた。

寝る前、入口の確認をした。

閂に触れる。

冷たい。

昨日より冷たいのか、手が温かいのか、わからない。

金属棒を軽く押す。

動かない。

動かないことは確認できる。

だが、押した力が昨日と同じかどうかはわからない。

同じ力で押しているつもりでも、身体が変われば確認の意味も変わる。

彼は、そのことを考えないようにした。

考え始めると、何も確認できなくなる。

寝床へ戻る。

布に入ると、背中の湿りが冷えた。

彼は体を丸めた。

体を丸めると、世界も少し小さくなる。

膝、肩、喉、手、足。

それぞれが別の場所で小さく鳴っている。

そのどれもが、自分のもののはずだった。

だが、一つ一つが別々に主張し始めると、自分というまとまりは少し頼りなくなる。

彼は暗い中で、今日の最後の文を思い出した。

身体が先に記録している。

その文は、少し違う気がした。

身体が記録しているのではない。

身体に記録されている。

何が。

外気。重さ。湿り。疲れ。段差。冷たさ。食べ物。眠気。昨日までの判断。今日しなかった外出。それらが、紙より前に身体へ入っている。

彼は起き上がろうかと思った。

書き直すためだった。

しかし、起き上がるには膝が重かった。

肩も重い。

寒い。

喉も少し乾いている。

書き直すべき文がある。

身体は、起きない方がいいと言っている。

どちらを優先するか。彼はしばらく布の中で迷った。

結局、起きなかった。

書き直しは、明日に回す。

そう決めた。

決めたというより、身体がその形に生活を押し込んだ。

翌朝、彼は記録帳を開くだろう。

そして、昨日の本文欄に、こう書かれているのを見る。

身体が先に記録している。

違う、とたぶん思う。

だが、その下に書き直すかどうかは、まだわからない。

書き直す前に、水を飲むかもしれない。

膝を伸ばすかもしれない。

入口を見るかもしれない。

あるいは、そのままにしてしまうかもしれない。

身体が許す順番でしか、一日は始まらなくなっていた。

外で触れたものも、持ったものも、避けたものも、少しずつ身体の内側に置き場所を作っている気がした。