廃れた大型店舗跡の外観
第三部 溶解する私

第十七章 空欄

前日の本文欄には、一行だけ白い場所が残っていた。彼はそこに何も足さないまま、次のページを開いた。

空欄は、最初ただの抜けだった。書き忘れた日。あとで埋めるつもりだった欄。疲れて、後回しにした項目。水量、電力、食事、外出、体調。どれも、思い出せば書けると思っていた。

思い出せなければ、空けておけばよかった。そう考えていた時期がある。

記録帳の一日分には、いくつかの欄がある。日付。天気。水。電気。食事。外出。回収。気づいたこと。最後に、本文という細い空間。

本文。その名は少し大げさだった。最初は、そこに長い文章を書くつもりなどなかった。朝の様子、風の音、外で見たもの、道具の位置、体調の変化。どこにも入らないものを一時的に置くための欄だった。

だが、いつのまにか、本文がある日とない日の差が大きくなっていた。水量だけなら、あとからでも書ける。食事も、だいたいは思い出せる。外出したかどうかも、靴の泥や袋の中身を見ればわかる。けれど、本文の欄は、あとから埋めにくい。

その日に何が重かったのか。何を見て手が止まったのか。何を書かずに終えたのか。そういうものは、日付を越えるとすぐに薄くなる。

彼は、空欄をあとで埋めようとした。

日付の下に、鉛筆を置く。

水量は、たぶん7割。電力は不足なし。食事は2回。外出はなし。そこまでは書ける。問題は最後の欄だった。

本文。何を書くべきだったのか。

彼は記録帳を閉じ、昨日の動きを順に辿ろうとした。

起きた。水を見た。煮沸した。棚を少し動かした。工具を戻した。入口を確認した。食べた。寝た。

並べれば、生活はある。

だが、その日がどういう日だったのかは、もう戻ってこなかった。何もなかったのではない。何かはあった。ただ、それを掴むための小さな突起が、もう紙の上に残っていなかった。

彼は空欄のままにした。

最初の空欄は、少し気持ち悪かった。

帳面を開くたび、そこだけ白い。日付の下に、細い四角が空いたまま残っている。空いているのに、そこに何かがあるように見える。

書かれていないのだから、何もないはずだった。だが、空欄は何もない場所ではなかった。そこには、書けなかったことがある。そう考えた瞬間から、空欄はただの余白ではなくなった。

次の空欄は、もう少し早く来た。

その日は、入口の木片を確認したあと、東側の棚を見直した。紐、布、釘、古い乾電池、手袋、使えるかもしれない金具。小さな物を箱から出し、別の箱へ移した。

移した理由はあった。

取り出しやすくするため。重さを揃えるため。湿気を避けるため。たぶん、そのどれかだった。

夕方、記録帳を開いたとき、彼は移動理由の欄で止まった。

移動理由。

そんな欄は、もともとなかった。

ないはずの欄を、彼は頭の中で探していた。

棚を動かしたなら、理由を書かなければならない。そう思った。だが、帳面には、棚移動、という項目すらない。あるのは回収、使用、補充、備考だけだった。

彼は備考欄に書こうとした。

東棚整理。

そこまで書いて、手が止まった。

整理。

整理したのか。

ただ移しただけではないか。

何かを確かめるために動かし、動かしたことで元の位置を失っただけではないか。

彼は、整理、の文字に細い線を引いた。

横に書く。

東棚移動。

移動。

それなら嘘は少ない。

だが、何をどこへ移動したのかは書かなかった。書けなかった。書こうとすると、箱の順番が曖昧になる。金具の数も、紐の束の位置も、布の種類も、どれが作業前でどれが作業後なのかわからなくなる。

彼は備考欄の下に、小さく書いた。

詳細空欄。

そう書いたあと、少し安心した。

空欄であることを記録したからだ。

ただし、その安心は長く続かなかった。

空欄と書けば、空欄は項目になる。

項目になれば、次から確認しなければならなくなる。

翌日、彼は記録帳を開いて、前日の「詳細空欄」を見た。

詳細空欄。

その四文字が、作業の続きを命じているように見えた。

埋めろ、ではない。

確かめろ、でもない。

ただ、そこに未処理のものがある、と言っている。

彼は棚の前へ行った。

記録に従ったのだと思った。

東棚を見直す。箱を開ける。金具の数を数える。紐の束を奥へ戻す。布を畳み直す。作業は普通だった。必要なことでもあった。けれど、始まり方がいつもと違った。

棚が気になったから動いたのではない。記録帳の空欄が気になったから動いた。そこに、小さな順序の反転があった。

前は、生活が先にあり、記録があとにあった。いまは、記録の抜けが先にあり、生活がそれを追いかける。

彼はそのことを、まだはっきりとは言葉にしなかった。

言葉にすれば、そうなってしまう気がした。

数日後、空欄は増えた。

本文欄だけではない。水の横に小さな空き。食事の下に線だけ引かれた場所。外出欄の端に、行き先を書きかけてやめた跡。備考の途中に、単語の前で止まったような短い横線。

それらは、ぱっと見ればただの書き損じだった。

だが、彼には、それぞれ別の種類の空白に見えた。

忘れた空欄。書かなかった空欄。書けなかった空欄。あとで確認するための空欄。確認したくなくて残した空欄。

同じ白でも、中身が違う。

彼は、空欄を分類しようとした。

それが間違いだった。

記録帳の後ろのページに、見出しを書く。

空欄分類

その下に、短く並べる。

1 未記入
2 記憶不明
3 判断保留
4 確認不能
5 書かない方がよいもの

5番目を書いたとき、彼はペンを止めた。

書かない方がよいもの。

なぜ、そんな項目が必要なのか。

何を書かない方がよいのか。

誰に対して、よくないのか。

彼は5番目を消そうとした。だが消すと、その跡が残る。消した跡は、書かなかったことよりも目立つ。彼はそのままにした。そのままにしたことで、5番目は残った。

残った以上、次から、空欄を見るたびに考えなければならなくなる。

これは、書かない方がよいものなのか。ただ忘れただけなのか。判断を保留したのか。確認不能なのか。

空欄分類は、空欄を減らさなかった。むしろ、空欄を深くした。

彼は記録帳を閉じ、手で表紙を押さえた。

紙の厚みが、以前より増えている気がした。

ページ数は変わらない。

増えているのは、書かれた量ではない。

書かれていないものの重さだった。

昼、彼は水の煮沸をした。

鍋に水を入れ、火をつけ、湯気を見た。蓋の端が震える。いつもの音だった。沸いたあと、少し冷まし、容器へ移す。

その動作は、身体が覚えている。

記録帳を見なくてもできる。

できるはずだった。

だが、容器へ移す前に、彼は机へ戻って記録帳を開いた。

水の欄を見る。

昨日の水量が空欄だった。

それを見た瞬間、容器へ移す手順が少し止まった。

昨日どれだけ使ったかがわからない。

わからなくても、いま目の前の水はある。容器もある。火もある。移せばいい。それだけのことだった。

それなのに、昨日の欄が空いていることで、今日の水まで不確かになる。

彼は容器を見た。

水は透明だった。

透明であることは、残量の確かさとは別だった。

彼は昨日の欄に、あとから書いた。

不明

それだけだった。

不明、と書くと、欄は埋まる。

埋まるが、不明は水量ではない。

数字の代わりに、不明という言葉が入っただけだった。

それでも、空欄よりはましに見えた。

ましに見えるものが増えていく。

そのことに、彼は少し疲れていた。

夕方、古いページを見返した。

一年目の記録は、まだ細かい。水量、食料、電池、外出、道具、天気。字も一定で、欄の幅に合わせて整っている。余白には小さな線や印があり、どこか得意げだった。

そのころの彼は、記録できることを信じていた。

世界が壊れても、書けば残ると思っていた。

いまは違う。

書けば残る。

それはまだ正しい。

だが、書いたものが何を残しているのかは、もうわからない。

出来事なのか。

判断なのか。

不安なのか。

書けなかったものの縁なのか。

彼は、古いページの空白を見た。

昔の空白は軽かった。

ただ使われていない余白だった。いつか書くための場所。まだ何も背負っていない紙の白さ。

いまの空白は違う。

そこには、書けなかった何かが座っている。

そう思った。

夜、彼は本文欄に、短く書いた。

空欄が増える。
ただし、何もなかったわけではない。

そこで止まった。

続きを書くべきだった。

何があったのか。

なぜ書けないのか。

空欄とは何か。

そういう文が続くはずだった。

だが、彼は書かなかった。

そのままペンを置いた。

二行の下には、まだ十分な白が残っている。

彼はその白を見ていた。

白い場所は、彼に向かって開いているように見えた。

書け、と言っているようでもあり、書くな、と言っているようでもあった。

どちらかはわからない。

彼は手元灯を消した。

消したあとも、さっきの白が目の奥に残っていた。

翌朝、彼はそのページを開いた。

二行の下は、当然のように空いている。

そこに何も書かれていないことを確認して、少し安心した。

何かが書き足されていたらどうするつもりだったのか、彼は自分でもわからなかった。

何も書き足されていない。

その事実は、安心であるはずだった。

だが同時に、少し残念でもあった。

その感情が、いちばん嫌だった。

書き足されていてほしかったのか。

誰に。

何を。

彼はその問いを、記録しなかった。

代わりに、朝の欄に書く。

本文欄 変化なし

変化なし。

その一文を書いたとき、彼は、自分が記録帳の状態を記録していることに気づいた。

水でもない。

棚でもない。

外部でもない。

記録帳そのものが、点検対象になっている。

彼はしばらくその文字を見ていた。

本文欄 変化なし。変化がないことを確認するために、記録帳を開いた。記録帳を開いたから、その日の最初の行動が決まった。

これも、順序の反転だった。

彼は、水を見る前に、記録を見た。

入口を見る前に、空欄を見た。

外を見る前に、昨日の白を見た。

それは小さなことだった。

小さなことだが、生活の向きが少し変わっている。

その日、彼は空欄を埋めなかった。

埋めないと決めたわけではない。

埋める言葉がなかった。

言葉がないなら、空けておくしかない。

そう思った。

だが、空けておく、ということも、もう一つの記録になっていた。

彼はページの端に、鉛筆で小さく印をつけた。

あとで見つけやすくするためだった。

小さな点。

それだけで、その空欄は普通の空欄ではなくなった。

印のある空欄。

確認対象の空欄。

戻るべき空欄。

彼は、その印をつけたことをすぐに後悔した。

後悔したが、消さなかった。

消すと、また跡が残る。

跡は、空欄よりも強い。

昼過ぎ、彼は棚を見た。

理由はなかった。

いや、理由はあった。

記録帳の空欄分類の5番目が気になっていた。

書かない方がよいもの。

棚のどこかに、それに当たるものがある気がした。

彼は、箱を開けていく。布、紐、釘、古い紙、油性ペン、空の瓶、壊れたライト。どれも、書かない方がよいものではない。

そもそも、物にそんな分類があるのか。

彼は箱を閉じた。

何を探していたのかわからなかった。

探していたのは物ではなく、空欄の理由だったのかもしれない。

空欄の理由を、棚の中から探していた。

それは少しおかしかった。

だが、完全におかしいとは言えなかった。

記録帳に書けないものが、生活のどこかに紛れている。そう考える方が、ただ書けなかったと認めるより楽だった。

夕方、彼は記録帳を開いた。

朝につけた小さな点が見える。

点の横の空欄は、まだ白い。

そこへ一行だけ書いた。

空欄は、あとで戻る場所ではない。

書いてから、違うと思った。

戻る場所ではある。

彼は何度も戻っている。

だが、戻っても埋まらない。

彼は続けて書いた。

戻っても、埋まらない場所。

その方が近かった。

空欄は、あとで埋めるための場所ではなくなっていた。

戻っても埋まらないことを確かめる場所になっていた。

夜、彼は一日の記録を終えようとした。

日付。天気。水。電気。食事。外出。回収。備考。

順に埋めていく。

本文欄で止まる。

今日は何があったのか。

空欄を見た。

空欄を見て、棚を開けた。

空欄の理由を探した。

空欄について書いた。

つまり、その日の中心は空欄だった。

彼は本文欄に書いた。

今日は空欄を見ていた。

その文は、出来事の記録としては変だった。

だが、嘘ではなかった。

彼はその下に、もう一行書く。

空欄が、行動を決めた。

書いてしまってから、しばらく動けなかった。

その一行は、書かない方がよいものに近い気がした。

だが、もう書いてある。

彼はペンを置いた。

記録帳を閉じようとして、閉じられなかった。

閉じれば、一日が終わる。

以前はそうだった。

だが、空欄がある日には、閉じても終わらない。

閉じた紙の内側に、白い場所が残る。見えなくなるだけで、なくならない。

彼はしばらく、開いたままの記録帳を見ていた。

紙の上には、書いたところと、書いていないところがある。

その境目が、前よりも濃く見えた。

書いたものが彼の記録なのか。書かなかったものが彼の記録なのか。どちらかではないのだろう。

両方が、彼の一日だった。

彼はようやく記録帳を閉じた。

閉じても、終わった感じはしなかった。

ただ、白いものを中に挟んだまま、紙の束が一つ重くなっただけだった。

その重さを机に置いたあとも、彼の腕にはまだ少し残っていた。