廃れた大型店舗跡の外観
第二部 失われる骨格

第十六章 気配

前日の地図は、壁に貼ったままにしておいた。彼はそこへ目を戻さないようにして、記録帳を開いた。

最初に気づいたのは、音だった。大きな音ではない。外で何かが崩れたわけでもない。犬でも、鳥でも、風でもなかった。そう言い切れるほど確かな音でもなかった。

ただ、普段なら鳴らない場所で、小さく何かが触れた気がした。彼は手を止めた。記録帳の上にペン先を置いたまま、しばらく動かなかった。手元灯の光は紙の上だけを照らしている。壁の地図は暗がりの中で薄く沈み、棚の影はいつもより少し深く見えた。

もう一度、音がするかと思った。しなかった。しなかったことが、かえって耳を残した。

音がした、とは書けない。音がしなかった、とも違う。音がしたかもしれない、という状態だけが、耳の奥に小さく残った。

彼はペンを置き、灯りを少し弱くした。明るくすれば見える。見えるが、こちらも外へ明るさを出す。暗くすれば見えにくい。見えにくいが、こちらの輪郭も少し薄くなる。

どちらがよいのかはわからない。以前なら、見えることを選んだ。地図も、棚も、記録も、すべて見えるようにすることで保ってきた。だが、いまは見えることが必ずしも安心につながらない。

見えないものがある、ということではない。見えたとしても、それが何なのかわからないことのほうが増えている。

彼は立ち上がり、入口の方へ行った。

搬入口の閂は閉まっている。内側に立てかけた金属棒も倒れていない。床に置いた小さな木片は、昨日の位置のままだった。風が入れば動く。何かが押せば少しずれる。目印というほどのものではないが、変化を見るために置いていた。

動いていない。動いていないことは、何もなかったことの証明にはならない。彼はしゃがみ、床を見た。

埃が薄く積もっている。自分の足跡はわかる。靴底の溝の形を覚えているからだ。ほかにはないように見える。

ないように見える。その言い方が、最近増えていた。何もない。異常なし。誰もいない。そう書ければ楽だった。だが、そう書くには強すぎる。彼が確認できるのは、見える範囲に、いま、はっきりした変化がないことだけだった。

彼は入口の横に置いた小さなノートを開いた。

封鎖 異常なし

そこまで書いて、少し迷った。

異常なし、でいいのか。

異常がないのではなく、異常を確定できないだけではないか。

彼は、その下に小さく書き足した。

音 未確認

未確認。

便利な言葉だった。だが、便利な言葉はすぐに増える。未確認、未判定、保留、読めないもの。名前が決まらないものを置く場所ばかり増えていく。

それでも書いた。書かないよりは、ましだった。

翌日、彼は北側の道を見に行った。

その音が気になったからではない、と自分では思っていた。北側は、もともと行きにくい方向だった。地図にも白い部分が多い。建物の配置が入り組み、道が細く、倒れた塀や古い倉庫が多い。見通しが悪い。

だが、行く理由がまったく別にあったわけでもない。

気配という言葉を使うのは早い。そう思った。気配と呼んだ瞬間、何かがいる前提になる。気配がある、という言い方には、すでに気配の主がいる。誰か、何か、こちらではないもの。その存在を、言葉の中で半分認めてしまう。

だから、まだ気配とは書かない。彼は地図の余白に、北側確認、とだけ書いた。

北側の道は乾いていた。前に雨で流れた土が、薄く固まっている。倉庫の壁は相変わらず傾き、金属板の一部が風で震えていた。音の原因になりそうなものはいくらでもある。

いくらでもある、ということが問題だった。

金属板。割れた看板。緩んだ扉。窓枠。吊り下がったコード。落ちかけた雨樋。乾いた枝。空き缶。ビニール袋。

どれも音を出す。

どれも、あの音だったかもしれない。

彼は倉庫の前で立ち止まった。入口は半分開いていた。

前からそうだったかどうか、思い出せない。以前通ったときには閉まっていたような気もする。少し開いていたような気もする。地図にも記録帳にも、そこまでのことは書いていない。

半開き。

それだけなら、風で説明できる。

風ではないかもしれない。

その二つの間に、身体が入る。

彼は入口へ近づかなかった。近づけば、わかることは増える。足跡があるか。物が動いたか。内部に新しい痕跡があるか。見ればわかるかもしれない。

だが、見に行くことで、こちらの存在もそこへ入る。

痕跡を確かめに行ったつもりで、自分の痕跡を増やすことになる。

彼は少し離れた位置から、倉庫の前を見た。

入口の右側に、古い段ボールが置かれている。前にもあったかもしれない。なかったかもしれない。湿気で角が潰れ、表面の文字は読めない。段ボールの上に、小さな石が一つ載っていた。

石。それだけなら、どこにでもある。だが、段ボールの上に石が載っている、という組み合わせが、妙に目に残った。自然にそうなったのか。誰かが置いたのか。その問いが出た時点で、もう遅かった。

世界は、ただそこにあるものと、誰かがそうしたものに分かれ始める。だが、その分け目は見えない。石一つでさえ、どちらにも見える。

彼は記録帳を出さなかった。

書けば、その石は記録になる。記録になれば、次に来たとき照合してしまう。動いたか、動いていないか。増えたか、消えたか。意味があるのか、ないのか。

意味があるかもしれないものを増やしすぎると、外を歩けなくなる。

彼はそのまま通り過ぎた。

通り過ぎたあとで、背中が少し重くなった。

見なかったことにしたのではない。

見たが、書かなかった。

その違いは小さい。だが、小さくない。

拠点へ戻る途中、彼は別のものを見つけた。

古い自動販売機の下に、空き缶が二本並んでいた。

一本なら何も思わなかった。風で転がったのだろう。傾斜で止まったのだろう。だが二本が、口を同じ方向へ向けて並んでいた。

偶然だ。

そう思った。

偶然ではないかもしれない。

そうも思った。

どちらでもあるものが、増えていく。

彼は足で空き缶を動かさなかった。手でも触れなかった。そのままにした。触れれば、自分がその配置の一部になる。

以前なら、使えるかどうかを見ただろう。

容器として使えるか。金属として使えるか。持ち帰る価値があるか。そういう判断が先に来た。いまは、配置が先に来る。

誰かが置いたのか。

それとも、ただそうなったのか。

その問いが、物の用途を遅らせる。

彼は戻ってから、記録帳を開いた。

書かないつもりだった。

だが、書かないままでいると、見たものが頭の中で勝手に大きくなる。書けば、少なくとも紙の上に置ける。紙の上に置けば、少し離せる。

彼は短く書いた。

北側確認。
倉庫入口 半開き。
段ボール上に石。
自販機下 空き缶2。
判断しない。

最後の一行を書いたあと、しばらく見ていた。

判断しない。

それは判断だった。

彼はその矛盾に少し疲れた。

判断しないと書くことで、判断を保留している。保留していると書くことで、見たことを消さずに済ませている。消さずに済ませると、次にまた見に行く理由になる。

記録は、気配を沈めるためのものだった。

だが同時に、気配を育てるものでもあった。

翌々日、彼は北側へ行かなかった。

行かないと決めたわけではない。水の確認があり、棚の整理があり、入口の補修があった。やることがあった。だから行かなかった。

それでも、北側へ行かなかったことを意識している時点で、北側は彼の中に残っていた。

外にある場所が、行かないことで内側へ入ってくる。

そういう入り方もあるのだと思った。

昼過ぎ、拠点の中で小さな違和感があった。

工具棚の下段に置いていた紐の束が、少し手前に出ているように見えた。

自分が動かしたのだろう。

そう思った。

実際、彼以外に動かす者はいない。

そのはずだった。

紐の束は、昨日入口の補修で使った。使ったあと、戻した。戻したときに奥まで押し込まなかったのかもしれない。疲れていた。手元灯も弱かった。

説明はつく。

説明がつくことと、納得することは違う。

彼は紐の束を奥へ戻した。

戻してから、また手前へ引き出した。

どの位置だったか、もうわからない。

戻す前の状態を確かめるために動かしたせいで、元の状態は消えた。

彼はその場にしゃがんだまま、しばらく棚を見ていた。

外だけではない。

気配は内側にも入ってくる。

自分がしたことを、自分のしたこととして確定できない。その隙間に、誰か、ではなく、誰かの可能性が入る。

誰かが入ったとは思っていない。

思っていないはずだった。

だが、思っていない、と何度も言う必要がある時点で、すでに少し侵入されている。

彼は記録帳に書いた。

紐 位置不明。
自分の可能性高い。

自分の可能性高い。

その表現が嫌だった。

自分が動かした、と書けない。誰かが動かした、とも書けない。可能性だけが残る。可能性は薄いのに、消えない。

夜、また音がした。

今度は、はっきりした気がした。

金属が軽く触れた音。短く、乾いていた。外か、内側か、わからない。彼はすぐには動かなかった。

動けば、音のあとに自分の音が重なる。

歩く音。布が擦れる音。棚に触れる音。息。自分が確認しに行くことで、確認したい音の続きを消してしまう。

彼はそのまま座っていた。

何も起きなかった。

何も起きない時間が長くなる。

長くなるほど、さっきの音だけが濃くなる。

彼は手元灯を消した。

暗くすると、音の場所が広がる。壁の向こうかもしれない。搬入口かもしれない。屋根の上かもしれない。棚の奥かもしれない。自分の頭の中かもしれない。

最後の可能性を、彼はすぐに消したかった。

だが消せなかった。

音は外から来たのか。

自分の中で鳴ったのか。

その境目が、少しだけ薄くなっている。

彼は暗いまま、記録帳の場所へ手を伸ばした。見えないので、指先で表紙を探る。紙の角に触れ、ペンを拾い、手元灯をつけずに一行だけ書こうとした。

字は乱れた。

音あり。

そこまで書いて止まった。

あり、と書いてよいのか。

音はあった。少なくとも彼にはあった。外にあったかどうかはわからない。誰かが出したかどうかもわからない。だが、彼の中にはあった。

彼は続けて書いた。

音あり。出所不明。

そのほうが近い。

さらに少し迷って、一行足した。

気配という語は保留。

書いてから、彼は暗がりの中で笑いそうになった。

保留ばかりだ。

未判定、未確認、保留、読めないもの、地図誤差、出所不明。どれも、決められないものを置くための言葉だった。そういう言葉で棚を作り、地図を作り、記録を作ってきた。

だが、それらの棚が増えるほど、世界は決められないものに囲まれていく。

翌朝、彼は入口の木片を確認した。

動いていない。

閂もそのまま。金属棒も倒れていない。外に出て搬入口の周りを見ても、足跡らしいものはない。壁際の草は揺れているが、踏まれた跡はない。

何もない。

そう書こうとして、やめた。

彼は記録帳に、こう書いた。

確証なし。

それだけだった。

確証なし。

それは何もなかったこととは違う。だが、何かがあったことでもない。その中間に置くための言葉だった。

その日、彼はほとんど外へ出なかった。

水を煮沸し、棚を少し見直し、昨日の紐の束を別の箱へ入れた。場所を変えれば、次に見たとき自分の記憶と照合しやすい。そう思った。

だが、場所を変えたことで、また一つ、古い配置が消えた。

確認しやすくするために、過去の状態を消していく。

そういうことが増えている。

昼、彼は北側の倉庫のことを思い出した。

段ボールの上の石。

空き缶二本。

半開きの入口。

それらが、頭の中で勝手に並ぶ。現地では離れていたものが、記憶の中では近づく。距離が縮む。意味がつながる。

記憶は、地図より勝手に線を引く。

彼はそれが嫌だった。

嫌だったので、もう一度地図を開いた。

北側の倉庫、自動販売機、公園、細い道。実際の位置関係を紙の上で確かめる。段ボールと空き缶は、近くない。倉庫と自動販売機の間には角が一つある。視界も通らない。

つまり、直接のつながりはない。

そう確認して、少し楽になった。

しかし、つながりがないと確認したこと自体が、もうその二つを同じ項目に入れている。

彼は地図を閉じた。

閉じても、頭の中の地図は閉じなかった。

夕方、棚の上に置いていた小さな石を見つけた。

昔、水袋の重しに使ったものだった。平たく、手になじむ。外から拾ってきて、洗って、何度か使った。そのあと使わなくなり、棚の端に置いたままだった。

段ボールの上の石と、同じくらいの大きさだった。

ただそれだけのことで、彼は少し動けなくなった。

同じくらいの大きさ。

それだけで何かがつながる。

似ているものは、意味がなくても意味のそばに寄る。

彼は棚の石を手に取り、別の場所へ移そうとした。

やめた。

動かせば、また位置がわからなくなる。

彼は石を元の場所に戻した。

戻したつもりだった。

本当に元の場所かどうかは、わからない。

その夜、彼は長く記録を書いた。

誰かがいるとは思わない。
だが、誰もいないと言うための材料も足りない。
いる/いないの前に、何かが残る。
音、位置、配置、記憶のずれ。
それらを気配と呼ぶと、呼びすぎる。
呼ばなければ、散る。

そこまで書いて、ペンを置いた。

気配。結局、その言葉を書いてしまった。書いた途端、言葉が部屋の中に薄く広がる感じがした。

気配は、存在ではない。不在でもない。そのどちらでもない場所に、言葉だけが先に置かれる。

彼はその言葉を消さなかった。

消すと、今度は消した跡が残る。

夜が深くなってから、彼は搬入口の近くへ行った。

外は暗い。隙間から冷たい空気が入っている。金属の匂いと、少し湿った土の匂いがした。

何も見えない。

見えないが、何もないとは言えない。

彼は閂に手を触れた。

冷たい。

その冷たさは確かだった。

確かなものが一つあると、少し落ち着く。

彼は閂の冷たさをしばらく手の中に置いた。音でも、気配でも、可能性でもない。ただ冷たい金属がそこにある。その事実だけは、いまのところ疑わなくてよかった。

戻って、記録帳に最後の一行を書いた。

確かなものは、触れたものだけに近づいている。

その文は、少し嫌だった。

世界が小さくなったように見えたからだ。

見えるもの。触れるもの。閉まっているもの。濡れているもの。冷たいもの。

それ以外は、少しずつ気配になる。

気配になると、捨てられない。

捨てられないが、信じることもできない。

彼は記録帳を閉じた。

閉じたあとも、部屋のどこかにさっきの言葉が残っていた。

気配。それは他者の始まりではなかった。まだ、誰かではない。だが、完全な無人を保つには、もう少しだけ多すぎるものだった。

翌日の記録欄に、その言葉を書き写すことはできなかった。

彼は本文の下を一行だけ空けたまま、ページを閉じた。