廃れた大型店舗跡の外観
終章

第二十三章 残置ノート

翌日、机の上には、触れなかったものだけが残っていた。記録帳も、鉛筆も、手鏡も、浮いた札も、前夜の位置から大きくは動いていない。

残置ノート、という題は、あとから書いた。最初からそう呼ぶつもりだったわけではない。記録帳の後ろに残っていた数枚の白いページを、彼はしばらく使わずにいた。白いまま残っていることに、少し抵抗があった。使えば減る。使わなければ残る。どちらにしても、白い紙は彼の前にある。

ある日、彼はその一枚目の上に、小さく線を引いた。日付を書く場所ではなかった。水量を書く場所でもない。外出記録でも、在庫表でも、空欄分類でも、残骸の一覧でもなかった。ただ、残しておくものを書こうと思った。

残しておくもの。誰に、とは考えなかった。誰かに向けて書くと、そこで嘘が混ざる気がした。

誰かが読むかもしれない、という考えは、まだ強すぎる。読まれないかもしれない。読まれるとしても、いつ、誰が、どの状態で読むのかはわからない。

だから彼は、宛先を書かなかった。宛先のないノート。それだけなら、これまでの記録帳と同じだった。だが、少し違った。

これまでの記録は、生活を続けるためのものだった。

水を残す。火を消す。棚を直す。入口を見る。地図を疑う。空欄を確かめる。身体の順番に従う。

このページは、それらを続けるためではない。続けてきたものが、どこに置かれているかを書くためのものだった。

彼は見出しを書いた。

残置ノート

残置。その言葉は、前にも使った。代置、置き返し、残置。取った代わりに置くこと。置いたのか、残したのか、自分でもわからないもの。誰のものでもないが、完全に無関係とも言い切れないもの。

いまは、少し違う。ここに残すものは、交換のためではない。償いでもない。説明でもない。ただ、置かれていることを、置かれているままに近い形で残すためのものだった。

彼はまず、机の上にあるものを書いた。

記録帳 1
欠けた手鏡 1
浮いた保留札 1
意味不明の紙片 1
鉛筆 短いもの2
布 小片3

数字は、いつもの記録表と同じように算用数字で書いた。

数えるための数字だった。

ただし、このページでは、数えることそのものが少し遅れて紙に乗った。

彼は次に、棚を書いた。

保留棚、札の端浮き。
中身、未整理。
片方の手袋、小瓶、金属片、石、紙片。
判定しない。

判定しない。これまで何度も似た言葉を書いてきた。判断保留。未判定。読めないもの。確認不能。

だが、この日は少し違った。判定しない、は逃げではなかった。そうするしかない、という諦めでもなかった。判定しないまま置く、という最後の扱い方だった。

彼は棚の前に立ち、もう一度見た。

片方の手袋は、片方のままある。

小瓶の中身は、いまも見えない。

金属片は、光を受けて少し鈍く光る。

石は、ただの石に見える。

紙片には線だけがある。

それらを全部、何かに戻すことはできない。

物は、由来へ戻らない。彼はその文を書こうとして、やめた。強すぎる。代わりに、短く書いた。

戻さない。

次に、地図を書いた。

壁から外すことはしなかった。

地図はまだ壁にある。赤い線、黒い丸、鉛筆の文字、テープの反射、旧目印、地図誤差。本日不使用。補修で視認性低下。

彼はノートに書く。

地図、壁面。
まだ使う。
ただし、信じるものではない。

書いてから、少し考える。まだ使う。この言葉には、未来がある。

彼は未来を書くつもりだったのか。

明日も使うのか。

明後日も見るのか。

それはわからない。

だが、使わないとも言えない。

捨てないものは、まだ少し先へ伸びている。

彼はそのままにした。

入口についても書いた。

搬入口、内側より封鎖。
閂、動くが緩みなし。
金属棒、立てかけ。
木片、床。
確認は触れること。

最後の一行で手が止まった。確認は触れること。それはもう、かなり前からそうだった。

見ただけでは足りない。

読んだだけでは足りない。

名前をつけただけでは足りない。

触れて、冷たさや重さやざらつきを受け取って、ようやくそこにあると少し思える。

それでも、触れれば変わる。

閂は鳴る。

紙はへこむ。

手には外が残る。

彼は、入口の一行の下に書いた。

触れすぎない。

それは注意書きだった。自分に向けたものか、ノートに向けたものか、わからない。

昼のあと、彼は水を煮沸した。

生活は止まらない。あるのは、水を火にかけること、湯気を見ること、容器を洗うこと、冷ますこと、棚に戻すことだった。

生活はまだ続いている。それを言い切るのは簡単だった。

だが、続いているということが、希望なのか、惰性なのか、手順なのか、彼にはもうあまり分けられなかった。

水は沸く。

それだけは起きる。

彼は水の欄に書いた。

水、煮沸済み。

それはいつもの記録だった。

残置ノートの下ではなく、今日の欄に書いた。

まだ、通常の記録と残置ノートは分かれている。分かれていることに、彼は少し安心した。

午後、彼は自分の名前を書こうとした。

残置ノートの最後に、名前が必要なのではないかと思ったからだった。

誰がこれを残したのか。その問いは、自然だった。自然すぎて、少し危なかった。

彼は鉛筆を持ち、ページの下に小さく点を打った。

点。

そこから名前を書き出すつもりだった。

だが、書けなかった。

名前を知らないわけではない。忘れたわけでもない。ただ、ここに書く名前が、何を保証するのかわからなかった。

このノートを書いた者。

ここに住んでいる者。

ここを拠点と呼んだ者。

水を煮沸した者。

空欄を見ていた者。

私と書けず、彼と書いた者。

それらに、一つの名前を置くことはできる。

できるが、それで何かがまとまるわけではない。

彼は点の横に、名前ではなく、こう書いた。

記録者

書いてから、すぐに違うと思った。

記録者。その言葉は、第一部のころなら合ったかもしれない。

だが、いまの彼は、記録する者であると同時に、記録に動かされる者でもあった。

記録者だけでは足りない。

彼は、記録者の横に線を引いた。

消さない。

消さずに、その下に書く。

書いた者

少しだけ近い。

しかし、それもまだ硬い。

彼はさらに下に書く。

ここにいた者

そこで手が止まった。

ここにいた者。過去形だった。まだいる。少なくとも、書いているあいだはいる。それなのに、いた、と書いた。

彼はその文字を見た。

直そうと思えば直せる。

ここにいる者。

そう書けばよい。

だが、いる、と書くには、少し強い。

いた、と書くには、少し早い。

彼は、そのままにした。

ここにいた者。

その文は、誰かに向けたものではなく、紙の中でだけ成り立つ距離だった。

夕方、彼は拠点の中を一度だけ回った。

水。

棚。

地図。

寝床。

入口。

記録机。

それぞれに触れることはしなかった。

見るだけにした。

触れれば、また近づく。

近づけば、また何かが残る。

その日は、残すためのノートを書いているのに、これ以上残すものを増やしたくなかった。

彼は机に戻り、残置ノートに書いた。

見た。
触れなかった。

二行だけだった。

それで十分だった。

夜、彼は残置ノートのページを読み返した。

記録帳 1。

欠けた手鏡 1。

浮いた保留札 1。

地図、壁面。

搬入口、内側より封鎖。

触れすぎない。

書いた者。

ここにいた者。

並んでいる言葉は、どれも少し足りない。

足りないが、足りないままそこにある。

これまでなら、彼は足りないところを補おうとした。

備考を足す。

注記を書く。

分類を作る。

括弧に入れる。

線を引く。

今日は、足さなかった。

足りないまま残す。それが残置ノートの仕事なのかもしれなかった。

彼は最後の行を空けた。

何かを書くつもりだった。

終わりの言葉。

閉じるための言葉。

そういうものが必要な気がした。だが、終わりの言葉を書くと、本当に終わりのようになる。彼はそれを避けたかった。

終わったのか、続いているのか、あとでまた開くのか、誰かが読むのか、自分が読むのか。

どれも決めなかった。

彼は最後の行を空けたまま、記録帳を閉じた。

閉じたあと、机の上に置く。

手鏡は右にある。

浮いた保留札は、その下に半分隠れている。

短い鉛筆は、記録帳の上ではなく横に置いた。

すぐに取れる位置だった。

すぐに取れる位置に置いたことに、彼は少し安心した。

まだ書くかもしれない。

その可能性が、机の上に残る。

彼は手元灯を消した。

暗くなったあとも、机の上の配置はだいたいわかる。

記録帳。

鉛筆。

手鏡。

保留札。

紙片。

触れなくても、そこにあると思えるぎりぎりの距離だった。

彼は寝床へ行った。

水は煮沸済み。

入口は閉まっている。

地図は壁にある。

残置ノートは机にある。

最後の行は空いている。

空いていることだけが、妙にはっきりしていた。

彼は布の中で、指先を軽く握った。今日触れなかったものの感覚は、手には残っていない。それでも、触れなかったことは残っている。

その残り方は、静かだった。

目を閉じる前、彼は一度だけ机の方を見た。

暗くて、もう見えない。

見えないが、ある。

その程度の確かさで、十分だった。

十分だと、思うことにした。

記録帳は閉じられている。

だが、最後の行はまだ空いている。

閉じた紙の内側で、その白だけがまだ折られずに残っていた。