廃れた大型店舗跡の外観
第二部 失われる骨格

第十四章 名称

「規律」という見出しの横に、彼は何も書き足せなかった。字は読める。ただ、その字が指しているものだけが、少しずつ痩せていた。

名前は、しばらくのあいだ役に立った。薬局。学校。交番。スーパー。診療所。職員室。管理人室。倉庫。駐車場。商品。備品。ゴミ。在庫。私物。

そう呼べば、それが何であるかを考えすぎずに済んだ。名前を書くと、細部を見る前に一度そこで手を止められた。これは薬局だ、これは学校だ、これは商品だ、と置くことができる。置いてから、使えるかどうかを考える。先に名前があると、棚や看板の前で迷う時間が少し短くなった。

だが、名前は少しずつ遅れ始めた。

最初に気づいたのは、薬局だった。

地図にも、古い看板にも、薬局と書いてある。入口の上には緑色の十字が残り、壁には健康相談のポスターが貼られていた。

棚の配置も、以前のままだった。頭痛薬、胃腸薬、湿布、包帯、栄養剤、マスク。棚札だけを見れば、そこはまだ薬局だった。

しかし、棚にはほとんど何もなかった。

あったとしても、箱が潰れている。ラベルが剥がれている。湿気を吸っている。期限が読めない。中身が本当にそれかどうかもわからない。

薬局と呼んだところで、そこに薬があるとは限らない。

薬があったところで、それが使えるとは限らない。

薬局、という名前は残っている。だが、その名前はもう何も保証しない。彼は入口でしばらく看板を見上げた。薬局。文字は読める。読めることと、使えることは違う。

以前、住所について考えたときにも似た感覚があった。読めるが、届かない。今度は、読めるが、働かない。

看板の文字は残っているのに、棚の奥でその文字に応えるものがなかった。

それでも、記録帳には最初、薬局と書いた。

薬局跡
包帯なし
消毒液 判定不能
栄養剤 2
持帰りなし

薬局跡。跡、を足すだけで、少し正確になった気がした。だが、その正確さは中途半端だった。薬局跡と書けば、そこがもう薬局ではないことは示せる。けれど、では何なのかはわからない。

薬があった場所。薬を売っていた場所。薬の名前だけが残っている場所。使えるかもしれないものと、使えないかもしれないものが混ざっている場所。

その全部を、薬局跡という三文字で済ませることには、どこか乱暴さがあった。

学校も同じだった。

門には校名が残っていた。文字は黒く、少し剥げている。

校庭には雑草が伸び、鉄棒は錆び、昇降口の靴箱には上履きがいくつか残っていた。廊下には掲示物が貼られたままで、教室には机と椅子が並んでいる。

学校。そう呼ぶのは簡単だった。だが、そこではもう何も教えられていない。

誰も集まらない。鐘も鳴らない。出席も取られない。給食もない。

体育館の床には埃が積もり、職員室の机には誰かの湯呑みがそのまま残っている。

学校という名前が、その場所に貼りついている。

しかし学校であるための流れは、もう抜けている。

彼は教室の黒板の前に立ったことがある。そこから見る机の列は、まだ何かを待っているように見えた。

けれど、その待っている感じさえ、名前が作っている錯覚なのかもしれなかった。

教室と呼ぶから、机は生徒を待っているように見える。職員室と呼ぶから、机の列は先生を待っているように見える。名前が、いないものの形を呼び起こす。

それは便利でもあり、邪魔でもあった。

交番も、交番という名前のまま残っていた。

小さな建物。机。椅子。壁地図。拾得物の用紙。交通安全のポスター。外の看板には、まだ交番と書いてある。

だが、そこへ何かを持って行くことはできない。失くしたものを届けることも、危険を知らせることも、道を聞くこともできない。

交番という名前は、頼れる場所という意味を持っていた。

その意味が抜けると、小さな建物だけが残る。

彼は記録帳に、最初はこう書いた。

交番
使えるものなし
地図あり
紙類 湿気
机下 空

そのあと、少し考えて、交番の前に「旧」を足した。

旧交番

旧。便利な字だった。旧薬局。旧学校。旧交番。旧スーパー。旧診療所。旧をつければ、名前を残したまま、機能が失われたことを示せる。

まるで一枚薄い布をかけるように、かつての名前と今の状態を同時に持たせることができる。

しばらく、彼は何にでも旧をつけた。旧店舗。旧住宅。旧事務所。旧駐車場。旧待合室。旧レジ。旧受付。旧職員室。

だが、それもだんだん合わなくなった。旧と書くと、まだ元の名前が中心に残る。いまは違うが、かつてはそうだった、という言い方になる。過去が基準になる。

けれど、長く使っていると、その過去の基準そのものが遠くなっていく。

旧薬局と書いた場所で、彼が見ているのは薬局の名残ではなく、使える包帯があるかどうかだった。

旧学校で見るのは、机や紙や雨をしのげる部屋だった。旧交番で見るのは、壁地図と丈夫な机と閉めやすい扉だった。

過去の役割ではなく、現在の使い道の方が前に出てくる。

そうなると、旧という字も少し遅れる。

彼は記録帳の地名欄を何度か書き換えた。

旧薬局

その横に小さく、

薬品跡

と足す。

次のページでは、

薬品棚跡

さらに後には、

包帯候補棚

になった。

名前が短くなったのではない。むしろ細かくなっている。薬局という大きな名前では、もう使えない。必要なのは、そこに何が残っている可能性があるかだった。

学校も、学校とは書かなくなった。

紙回収校舎
雨避け可
机材あり
黒板粉多

職員室は、

紙多い部屋

になった。

保健室は、

布・薬品候補

になった。

体育館は、

広いが響く

になった。

印刷された名前の上に、彼の鉛筆の名前が少しずつ増えた。

それは実用的だった。

実用的だったが、少し危うかった。

薬局を包帯候補棚と呼ぶ。

学校を紙回収校舎と呼ぶ。

交番を壁地図小屋と呼ぶ。

スーパーを棚群と呼ぶ。

診療所を布・薬品候補と呼ぶ。

そうすると、場所は以前よりよく見える。何のために行くのかがはっきりする。無駄に奥まで探さなくて済む。

目的と場所が結びつく。

だが同時に、場所は彼の内側へ寄ってくる。

自分がそう使うから、そう呼ぶ。

自分にとってそう見えるから、そう名づける。

その文字を読めるのは、たぶん彼だけだった。

かつての薬局という名は、誰でも読めた。学校も、交番も、スーパーも、同じだった。そこにある程度の共有があった。

知らない町でも、薬局と書いてあれば、そこに薬の可能性を見た。交番と書いてあれば、そこに助けの可能性を見た。

今の名前は違う。

包帯候補棚。

紙多い部屋。

広いが響く。

壁地図小屋。

それは正確かもしれない。だが、彼以外にはほとんど通じない。

彼はそのことを、地図に書き込んだ文字を見て思った。

地図の上には、印刷された町名と施設名が残っている。

その上に、彼の鉛筆の文字が重なっている。

反射の角。犬なし。草高い。裏通路可。紙多い。音響く。戻りやすい。水臭い。濡れる。入らない。

印刷された名前と、彼の名前が混ざっている。

混ざることで地図は使いやすくなる。だが、地図は少しずつ自分の頭の中に似ていく。それが嫌だったわけではない。むしろ必要だった。

看板の名前が役に立たない場所では、鉛筆の名前を足すしかなかった。

名前を作らなければ、物も場所もただの塊になる。

塊は怖い。区別がないものは扱えない。扱えないものは、すぐに外部になる。

だから名前をつける。ただし、つけた名前が増えるほど、世界は外の世界ではなく、自分用の配置になっていく。そのことが少し怖かった。

棚の中でも、同じことが起きていた。

最初、彼は棚に普通の分類名をつけていた。

食品。

水。

工具。

医薬品。

燃料。

紙。

衣類。

清掃用品。

電池。

予備。

その分類は、しばらく機能した。

だが、時間が経つにつれて、どれにも入らないものが増えた。

たとえば、期限の読めない薬。

食べられるかもしれないが、食品と呼ぶには不安な粉末。

工具ではないが、何かを押さえるのに使える金属片。

燃料ではないが、燃えそうな紙束。

ゴミのようだが、隙間を塞ぐのに使える発泡材。

私物だったはずの手帳。

誰かの写真。

鍵。

割れた鏡。

濡れた地図。

名前だけが残った会員カード。

それらをどう呼ぶかで迷う時間が増えた。

ゴミ。

そう書けば簡単だった。

だが、ゴミという名前は強すぎる。捨てる側へ一気に寄せてしまう。あとで使えるかもしれないものまで、捨てるものとして見えてくる。

反対に、備品と呼べば残す側へ寄りすぎる。使い道がないものまで、必要なものに見える。

彼は保留棚を作った。

保留。

それは便利な名前だった。

捨てない。

使わない。

まだ決めない。

名前をつけないための名前。

判断しないことを、いったん分類にするための名前。

保留棚には、そういうものが集まっていった。

割れたプラスチックケース。

鍵束。

濡れた手帳。

用途不明のケーブル。

小さな部品。

古い写真。

未開封だが中身のわからない袋。

金属の板。

ひびの入った水筒。

文字の読めない瓶。

最初は、保留棚があることで気持ちが落ち着いた。

判断しなくていい場所がある。

捨てるでもなく、使うでもなく、ただ置ける場所がある。

だが、保留はすぐに増えた。

増えた保留は、ただの混乱に近づく。

名前をつけられないものを置く場所が、名前をつけられないものばかりで埋まっていく。

そうなると、保留という名前自体が、何も決めていないことを隠す札になる。

彼はある日、保留棚の前に立ち、しばらく動かなかった。

棚札には、太い字で「保留」と書いてある。

その字が少し嫌になった。

保留。

それは判断の一種なのか、判断の延期なのか。

延期が長くなれば、それはもう分類ではなく、放置に近い。

彼は棚札を剥がし、裏返して、新しく書いた。

未判定

少しだけましになった気がした。

保留は、どこか柔らかい。未判定は、まだ見る必要があるという感じがある。決めていないが、決める対象として残している。そういう硬さがあった。

だが、その数日後、また違うと思った。

未判定という言葉も、いつか判定できることを前提にしている。

けれど、中には永遠に判定できないものもある。

使えるかどうかも、捨てるべきかどうかも、誰のものだったかも、何に使うのかもわからないもの。

彼はその棚の端に、小さく別の札を貼った。

読めないもの

それは分類名としてはよくなかった。曖昧すぎる。

だが、その曖昧さのほうが正確だった。

読めないもの。

用途が読めない。

持ち主が読めない。

危険かどうかが読めない。

捨ててよいかが読めない。

物はそこにある。

だが、その物へ向かう名前の線が届かない。

彼は記録帳に、棚名の変更を書いた。

保留棚 → 未判定
未判定の一部 → 読めないもの
液体類は下段
紙類と離す
読めないものは増やしすぎない

書き終えてから、最後の一行を見た。

読めないものは増やしすぎない。

それは物の話ではないようにも思えた。

名前が合わなくなっているのは、外の場所や棚だけではなかった。

自分で作った言葉も、すぐに古くなる。

以前、「代置」と書いた。

取る代わりに置くこと。

そのときは必要な名前だった。交換ではない。支払いでもない。返礼でもない。

だから代置と書いた。

だが、何度か続けるうちに、それも少し違う気がしてきた。

代置という言葉には、代わりに置いた、という形がある。

何かを持ち帰り、その代わりに何かを置く。

だが実際には、代わりになっていないことのほうが多い。

包帯の代わりに油性ペン。ノートの代わりに鉛筆。水の代わりに布。

釣り合っていない。相手もいない。代わり、という言葉が少し強すぎる。

では何か。

置き返し。

そう書いてみた。

置き返し 鉛筆3

少し口語に近い。だが、代置より身体に近い。

置いて、返す。

何に返しているのかはわからない。

それでも手の動きとしては、その方が近い。

数日後には、また変わった。

残置

残置は、すでに残されているものにも使う。

自分が置いたものなのか、誰かが置いたものなのかが曖昧になる。

曖昧になるが、もしかするとその曖昧さのほうが合っているのかもしれなかった。

名前は、決めるためにある。

だが、決めすぎると嘘になる。

彼はそのことに、少しずつ疲れていた。

名前を考える時間が増える。

これは在庫か。

回収物か。

備品か。

残置物か。

未判定か。

読めないものか。

これは薬局か。

薬局跡か。

薬品跡か。

包帯候補棚か。

これは交換か。

代置か。

置き返しか。

残置か。

一つの物に、いくつもの名前がかぶさる。

札を貼り替えるほど、棚の中身から少し離れていく日もあった。

ある日、彼は記録帳の項目名を消した。

「回収物」と書いていたところを、線で消す。

その横に、「持帰り」と書く。

持ち帰り。

それは分類ではなく、動作だった。

何であるかではなく、何をしたか。

以前、役割のようなものが抜けたあとに、動詞だけが残ると考えたことがある。

名前でも同じことが起きているのかもしれなかった。

薬局ではなく、取った。

学校ではなく、避けた。

交番ではなく、見た。

棚ではなく、置いた。

保留ではなく、決めなかった。

名詞は崩れやすい。

動詞は少しだけ長く残る。

彼はその考えを気に入ったわけではない。

ただ、少し実用的だと思った。

地図の上にも、名詞ではなく動詞が増えた。

入らない。

濡れる。

響く。

見える。

戻れる。

滑る。

避ける。

拾う。

置く。

待たない。

場所名より、その場所で何をするか、何をしないかのほうが役に立つ。

町は、名前の集まりから、動作の集まりへ変わっていく。

その変化が進むほど、彼は昔の看板を見るのが少し苦手になった。

ドラッグストア。

ベーカリー。

クリーニング。

美容室。

学習塾。

不動産。

整骨院。

ファミリーレストラン。

どれも明るい名前だった。

何をする場所かが、はっきりしていたころの名前だ。

食べる。洗う。学ぶ。借りる。治す。整える。待ち合わせる。

そういう動作が、名前の中できれいに整列していた。

いまは、その名前の明るさだけが浮いている。

パンのないベーカリー。

洗濯物を預からないクリーニング。

誰も学ばない学習塾。

貸す部屋のない不動産。

治療しない整骨院。

食事を出さないレストラン。

名前は残る。

中身がない。

それでも彼は、それらを完全に消すことはできなかった。

古い名前を消しすぎると、町がただの素材の集まりになる。新しい名前をつけすぎると、町が自分の頭の中だけの場所になる。そのあいだで、彼は何度も書き換えた。

消して、書く。

書いて、また消す。

鉛筆の跡が地図に重なる。

棚札の裏表がなくなる。

記録帳の項目名が太くなり、汚くなる。

名前を変えるたびに、世界が少しだけ動く。

実際には、物の位置は変わっていない。薬局はそこにあり、学校もそこにあり、交番もそこにある。棚の上の箱も、机の下の紙束も同じ場所にある。

変わるのは、こちらがそれをどう呼ぶかだった。

だが、どう呼ぶかが変われば、どう見るかも変わる。

どう見るかが変われば、どう使うかも変わる。

そう考えると、名称は単なる言葉ではなかった。

名前は、物と行動のあいだに置かれた、小さな命令だったのかもしれない。

ゴミと書けば、捨てる。

在庫と書けば、数える。

薬と書けば、効くか考える。

燃料と書けば、火を思う。

私物と書けば、少し手が止まる。

未判定と書けば、後回しにする。

読めないものと書けば、近づきすぎない。

名前が行動を決める。

だから、名前を間違えることは怖い。

捨ててはいけないものをゴミと呼ぶ。

近づいてはいけないものを備品と呼ぶ。

使えないものを薬と呼ぶ。

危険な液体を水と呼ぶ。

戻る場所を拠点と呼ぶ。

最後の言葉で、彼は少し止まった。

拠点。

彼はその建物をずっとそう呼んでいた。

拠点。

基地。

戻る場所。

旧ホームセンター。

いくつもの名前があった。

最初は、拠点という言葉がいちばんしっくりきた。そこには水があり、棚があり、寝床があり、記録机があり、屋上の集水と発電があった。外へ出て、戻る。戻ったものを分類し、置き、書く。そこは生活の中心だった。

だから拠点と呼んだ。

だが、拠点という名前にも、どこか外側の響きがあった。

作戦の拠点。

活動の拠点。

補給の拠点。

誰かが動き、誰かが戻り、次の目的がある場所。

いま、そこにいるのは彼だけだった。

外へ出る。

戻る。

水を見る。

火を消す。

棚を直す。

眠る。

それは拠点なのか。

ただ戻っている場所ではないのか。

彼は旧事務所の机に座り、記録帳の表紙を見た。

そこには、自分で書いた見出しがある。

拠点記録

しばらく、その4文字を見ていた。

拠点記録。

記録の中では、そこは拠点だった。

だが、拠点だから記録しているのか。

記録しているから拠点になっているのか。

順番がわからなくなる。

彼は表紙に鉛筆を当てたが、消さなかった。

消せば楽になるわけではない。

拠点という名前を外したところで、この場所がなくなるわけではない。逆に、名前を残したところで、この場所が本当に拠点であり続ける保証もない。

名前は保証ではない。

それでも、名前がなければ戻りにくい。

彼は記録帳の余白に、1行だけ書いた。

拠点 仮

仮。

それは弱い字だった。

だが、その弱さが今は合っていた。

薬局 仮。

学校 仮。

交番 仮。

在庫 仮。

保留 仮。

代置 仮。

拠点 仮。

すべてを仮にしてしまえば、何も決まらなくなる。

だが、決まりすぎた名前に引っ張られるよりはいい。

彼はその日、いくつかの棚札に小さく鉛筆で印をつけた。消すためではなく、あとで見直すための印だった。

食品。

工具。

薬品。

燃料。

紙。

未判定。

読めないもの。

全部がまだ使える名前だった。

全部が少しずつ怪しかった。

夜、手元灯の下で地図を見た。

印刷された町名。施設名。道路名。

その上に、自分の鉛筆の線と仮の名前。

薬品跡。

紙多い部屋。

壁地図小屋。

広いが響く。

戻れる。

入らない。

読めない。

2種類の名前が重なっている。

どちらが正しいのかは、もうわからない。

たぶん、どちらも完全には正しくない。

だが、どちらも完全には捨てられない。

古い名前だけでは動けない。

新しい名前だけでは外へ開けない。

彼は地図を閉じ、記録帳の最後に書いた。

名前は、物を固定するためにあると思っていた。
だが今は、動かないようにではなく、完全に流れないようにするために書いている。
正しい名前ではない。
ただ、今のところ呼べる名前。

そこで手を止める。

今のところ呼べる名前。

それで十分なのかもしれなかった。

十分ではないかもしれない。

けれど、名前がまったくないよりはいい。

名前のないものは、すぐに暗くなる。

暗くなったものは、棚の奥へ行く。

棚の奥へ行ったものは、やがて読めなくなる。

彼は手元灯を消す前に、もう1度だけ表紙を見た。

拠点記録。

その文字は、まだ消さなかった。

ただ、下に小さく足した。

それで少しだけ、呼吸が楽になった。

拠点。

そう呼んでいる。

だが、それは建物の名前ではない。

自分が戻るから、そう呼んでいるだけだった。

ただ、鉛筆で名前を足しても、道の線そのものは昔のままだった。