廃れた大型店舗跡の外観
第二部 失われる骨格

第十二章 役割

管理人室という札の下に、小さな窓と椅子があった。窓は閉まっている。椅子は、誰かが戻るのを待っているような角度で残っていた。

役割は、人がいなくなってからもしばらく残った。制服が残る。名札が残る。受付の窓口が残る。レジ台が残る。職員室の机が残る。管理人室の椅子が残る。診察券入れが残る。番号札を取る機械が残る。

人はいない。それでも、入口に立つと、足が少しだけ決まった場所へ向く。

スーパー跡に入ると、彼は今でも一瞬だけ、レジの内側へ入るのをためらう。

誰も止めない。店員はいない。客もいない。金銭のやり取りもない。商品という言葉すら、もう合っているのか怪しい。

棚に残っている物は、売り物ではなく、残留物だった。それでも、レジ台の内側には入りにくい。そこは、以前なら入ってはいけない場所だった。

境界は低い。腰ほどの高さの台と、使われなくなったバーコードリーダー、釣銭トレー、レジ袋の束。

物理的には簡単に越えられる。だが、その低い台の前で、足だけが昔の高さを覚えていた。

こちら側が客。向こう側が店員。その区別はもう働いていない。働いていないのに、身体だけが少し覚えている。

彼はレジの内側へ入り、棚の下を探った。古いカッター、輪ゴム、セロハンテープ、店員用のメモ帳が出てきた。メモ帳の表紙には、店舗名とロゴが印刷されている。中には、勤務交代の時間や、発注数の走り書きが残っていた。

「欠品注意」

「レジ袋補充」

「返品処理」

短い文字だった。短い言葉なのに、どれも誰かの手順を待っているようだった。

欠品とは、商品が売れることを前提にした言葉だ。返品とは、買った人がいて、受け付ける人がいて、処理する仕組みがあることを前提にしている。

レジ袋の補充も同じだ。客が来る。物を買う。袋に入れる。

その流れがあって初めて、補充という作業が生まれる。いま、その流れはない。それでもメモだけが残る。

彼はそのメモ帳を持ち帰らなかった。

紙としては使えた。裏面も白い。書ける部分は多い。だが、そこに残った役割の匂いが強すぎた。店員が店員であったころの小さな命令が、まだ紙の中で働こうとしている。持ち帰れば使える。使えるが、自分の記録帳の横には置きたくなかった。

診療所跡では、もっとはっきりしていた。

受付カウンターの向こうに、白衣が一枚かかっていた。壁際のハンガーに、肩を落としたまま吊られている。

黄ばんではいるが、形はまだ残っていた。胸のあたりには名札を留めていた跡がある。名前はない。名札そのものは外れていた。

白衣を見ると、そこに医者か看護師の形が立ち上がる。だが、白衣だけでは何もできない。

処置室の棚には、空の薬瓶が並んでいた。カルテ棚は開いたまま、紙の束が乱れている。診察台の上には、薄いビニールのカバーがまだ半分残っていた。

患者が横になる場所。医者が立つ場所。付き添いが座る椅子。待合室。受付。会計。

全部の場所が、誰かの立ち位置をまだ覚えている。

しかし誰もいない。

白衣も、受付も、診察台も、人が立つ前に形だけを用意していた。

白衣を着れば医者になるわけではない。レジの内側に立てば店員になるわけでもない。受付に座れば事務員になるわけでもない。交番に入れば警官になるわけでもない。それなのに、場所は一瞬だけそう見せる。

彼は診療所の受付側へ回り込み、引き出しを開けた。

診察券の束があった。期限切れの保険証のコピー、予約票、問診票、番号札。

そこには、かつて人を患者にするための紙が並んでいた。

患者。

それも役割だった。

痛みがある人、傷がある人、病気の人、では足りない。診療所へ来て、受付をし、呼ばれ、診察され、薬を受け取り、会計をする。その手順の中に入ることで、人は患者になる。痛みだけでは患者ではない。制度の中へ通されて、初めてそう呼ばれる。

受付の順番が消えると、痛いところだけが残った。彼はそれを少し怖いと思った。

痛みはある。傷もある。発熱もある。咳もある。だが患者はいない。治療者もいない。受付もない。順番もない。

あるのは、使えるかもしれない包帯、期限の読めない薬、洗えばまだ使える器具、そして判断できないものだけだった。

交番跡にも入った。

小さな建物だった。ガラスは割れていない。

机と椅子、壁の地図、拾得物の記録用紙、交通安全のポスター。奥の棚には、古いファイルが数冊残っていた。

中身はほとんど湿気で読めなかった。

ここでは、机の向こうとこちら側の違いが特に強かった。

以前なら、机の向こうにいる者は警官で、こちら側にいる者は届け出る者だった。

なくした財布。道に迷った子供。事故。苦情。相談。通報。

それらの言葉は、机の向こうへ渡されて、初めて紙の上に置かれた。

いまは、何を届け出ることもできない。拾ったものを持ってきても、受け取る者はいない。危険を知らせても、駆けつける者はいない。地図の上に赤い丸をつけても、巡回は始まらない。

それでも、机の向こう側へ座ると、少しだけ居心地が悪かった。

彼はすぐに立った。

警官ではない、と思った。だが同時に、届け出る者でもなかった。相談者でもない。通行人でもない。住民でもない。

どちら側に立っても、床はもう理由を返してくれなかった。

学校の職員室では、さらに曖昧だった。

机が並び、名札の差し込み口が残り、壁には時間割の跡があった。黒板には白いチョークの粉だけが残っている。

教員用の湯呑み、印鑑ケース、出席簿の背表紙、配布物の箱。

人がいなくなっても、先生という役割の輪郭だけが部屋の中に残っていた。

生徒の机も別の教室に残っていた。

小さな机。

椅子。

落書き。

ランドセル掛け。

掃除用具入れ。

そこには、座るべき身体の大きさまで残っている。

だが生徒はいない。

先生もいない。

教室は教室の形をしているが、教えることも、学ぶことも、待つこともない。

黒板の前に立っても、先生にはならない。机に座っても、生徒には戻れない。

場所だけが役割の配置を保ち、その役割に入る人間だけが抜けていた。

彼は教壇の上に立ってみた。

見えるものは、机の列と、窓と、剥がれた掲示物だけだった。

すぐに降りた。

そこは誰かが立つ場所だった。

だが自分の場所ではなかった。

そしてもう、誰の場所でもなかった。

窮屈だったはずの立ち位置が、あとになって目印のように見えた。

客として並ぶ。患者として待つ。生徒として座る。店員として立つ。警官として答える。管理人として鍵を持つ。先生として前に出る。そういうものは面倒で、窮屈で、ときどき嘘だったはずだ。

だが、なくなってみると、それは手すりでもあった。

どこに立てばいいか。どこまで入っていいか。何を聞いていいか。何を頼んでいいか。何をしてはいけないか。役割は、その場の中で人の位置を決めていた。

位置が決まると、言葉も決まる。言葉が決まると、手順が生まれる。手順があると、場面は進む。

いまは、場面が進まない。

レジの前に立っても、買うことは起きない。

受付に立っても、呼ばれない。

交番に入っても、相談は始まらない。

教室に座っても、授業は始まらない。

管理人室の椅子に座っても、建物を管理する者にはならない。

椅子と机と窓口だけが、それぞれの向きを保っている。

彼は、拠点に戻ってから自分の記録帳を見た。

日誌。在庫。水と電気。探索。雑記。それらを書いている自分を、しばらくのあいだ「記録者」と呼んでいた。

水を見て、棚を整え、入口を確認する自分を「管理者」と呼んでいた。

そう呼ぶことで、自分の行動に輪郭が出た。

だが、その言葉にも同じ空洞がある。

記録者とは、誰に向けて記録する者なのか。

管理者とは、誰から何を預かっている者なのか。

拠点とは、誰に認められた場所なのか。

誰もいない。

だからといって、書くことも、整えることも、確認することも消えるわけではない。

動作は残る。

むしろ動作だけが残る。

書く。数える。運ぶ。濾す。閉める。戻る。眠る。肩書きが剥がれたあと、記録帳には動詞ばかりが残った。

そのことを、彼は記録帳に書いた。

店員はいない。
客もいない。
医者も患者もいない。
先生も生徒もいない。
警官も届け出る者もいない。
場所だけが、それぞれの立ち位置をまだ覚えている。

少し間を空けて、もう一行足した。

自分も、管理者ではないのかもしれない。
ただ、管理に似た動作を続けている。

その文を書いたあと、彼はペンを置いた。

言葉が剥がれると、行動はむき出しになる。

むき出しになった行動は、正しいとも間違っているとも言いにくい。ただ、ある。

水を見る。火を消す。棚を動かす。紙に書く。入口を閉める。

それで十分なのかもしれない。

だが十分だと決めるには、まだ少し早かった。

彼は記録帳を閉じ、机の横に置いた。

旧事務所の中では、寝床、棚、手元灯、記録机が、それぞれの位置を保っていた。

そこにも役割はあった。

寝る場所。書く場所。保管する場所。照らすもの。

ただ、それらの役割はまだ、人がいなくても壊れにくい。

布は寝るためにある。

水は飲むためにある。

灯りは見るためにある。

紙は書くためにある。

単純な役割だけが、少し長く残る。店員や客や患者や先生のような役割は、もう場所から剥がれた。だが、水を飲む者、火を消す者、戻る者、書く者としてなら、まだ自分はそこにいる。

人間の役割が失われたあと、最後に残るのは肩書きではなく、動詞だった。

彼はそう思った。

そしてその動詞だけで、どこまで自分を保てるのかは、まだわからなかった。

書く、閉める、戻る。

どれも音を立てるが、返事はなかった。