廃れた大型店舗跡の外観
第一部 残存する世界

第七章 外部

周辺図の余白に書きかけた「外」という文字は、朝になってもまだ薄く残っていた。消すほどではない。だが、囲むこともできなかった。彼はその横に目的地だけを書いた。

外へ出ると、世界は思っているより広く、思っているより薄かった。拠点の中にいると、世界は棚と通路と水と光でできている。どれも手の届く範囲にある。扉を閉めれば、危険は少なくとも向こう側へ押しやれる。だが外へ出ると、その境界はすぐに曖昧になる。危険が増えるというより、自分の手順が少しずつ効かなくなる。

拠点の中では、自分が何をする人間なのかがまだわかる。水を見る。棚を確かめる。日付を書く。電気を削る。外では、そのどれもが少しずつ別の動作に変わる。見ることは警戒になり、確かめることは遅れになり、立ち止まることは露出になる。

今日は遠出をする。前に見た配送センターよりさらに先、川を越えた先にある大型の商業施設跡まで行く。距離は往復でかなりある。日帰りできるが、寄り道や障害物が増えれば夕方ぎりぎりになるかもしれない。目的は二つ。ひとつは医薬品の可能性。もうひとつは書籍と紙だ。薬局と書店が同じ建物に入っていた記憶がある。記憶は頼りない。だが外へ出る理由としては十分だった。

出発前に、机の上へ並べる。水。簡易の食料。折りたたみ地図。鉛筆。軍手。薄いロープ。小さなライト。鉄の棒。布袋。持ち物は増やせば安心するが、増やしすぎると戻るときに邪魔になる。持ち帰る余地を残して出る。それが外出の基本だった。

最初の頃は逆だった。何が要るかわからず、余計なものまで持ち出して、帰りに息が上がった。息が上がると判断が遅れる。判断が遅れると、最後の数百メートルで一番間違える。そういう順番を、何度か失敗して覚えた。

記録帳に目的地を書く。

「南東、大型商業施設跡。

薬、書籍、紙。

橋の状態次第で引き返し。」

橋の状態次第、という一文を入れる。橋は地図に載っていても、現地ではもう橋ではないことがある。崩れていなくても、渡る意味が薄れていることもある。橋があっても、その先へ行く制度や用事や関係がなければ、渡る意味は急に軽くなる。

拠点を出る。朝の空は薄い灰色で、雲が高い。日差しは弱いが、雨にはならなそうだった。こういう空の日は、街全体が色を失う。コンクリートもアスファルトも、看板の錆も、乾いた草も、全部が同じ明るさの中で少しずつだけ違って見える。

違いはある。だが強くはない。強くない差異の中を歩いていると、自分の判断も少しずつ鈍くなる。色の強い日より、こういう日のほうが疲れる。

幹線道路をしばらく進む。以前より静かだ。静かだが、完全な無音ではない。風がある。ビニールが擦れる。どこかで金属板が揺れる。遠くで何かが崩れる音が、ごくたまにする。そのたびに足を止めるほどではないが、耳の中に小さな印がつく。外を歩くとき、人は見たものより、やり過ごした音の数で疲れるのかもしれなかった。

途中、コンビニ跡の前を通る。ガラスは大きく割れ、雑誌棚だったものが倒れたまま残っている。以前なら寄ったかもしれない。だが今は寄らない。何度か入って、残るものの種類がほとんど読めているからだ。外出では、入らないと決めた場所を通り過ぎる能力が大事になる。

以前は目につく建物すべてが可能性に見えた。いまは違う。可能性の高低を先に判断する。その判断は冷たくなる。冷たくなることに少し慣れている自分に気づくとき、たまに嫌な感じがする。だが嫌な感じだけでは足は軽くならない。

川へ向かう道で、自転車が横倒しになっている。前輪が曲がり、チェーンは外れ、荷台には空の買い物かごがひとつ縛りつけられていた。その自転車を見て、誰かがここまで買い物に来るつもりだったのだろうか、と思う。あるいは帰る途中だったのかもしれない。そういう想像は役に立たない。役に立たないが、目に入ったものに時間がついて回る。横倒しの自転車には、まだ行き先の途中のような角度が残っていた。

拠点の中にも過去はある。だがそこでは、自分の手順のほうが前に出る。外では逆だった。誰かの時間が抜け殻として残り、そのあいだをこちらが通る。

橋はまだ渡れた。欄干の一部が歪み、路面にひびは入っているが、落ちるほどではない。川の水位は低い。濁っていて、流れは遅い。以前はもっと水の音がした気がする。気のせいかもしれない。街の音が減ったぶん、音の感じ方のほうが変わった可能性もある。

橋の中央で立ち止まり、下を見る。水の流れは続いている。人間の都合と関係なく、橋の下だけは時間が別の仕方で動いているように見えた。そういうものを見ると少し安心する。安心する理由は、たぶんこちらが何も決めなくていいからだ。

川を越えた先は、拠点の周辺よりさらに荒れていた。商業施設へ近づくにつれ、駐車場の広さが目立ってくる。広い空き地は遠くまで見渡せるが、同時にこちらも見られやすい。身を低くする場所が少ない。車の残骸はあるが、朽ちていて陰としては弱い。

こういう場所では、急がず、しかし止まりすぎずに歩く。中途半端な速度がいちばんよくない。怖がっている足は遠くからでもわかる気がする。誰かが見ているという確証はない。ないが、確証がないことと、見られていないことは別だった。

商業施設の入口は半分崩れていた。ガラス張りの吹き抜けがあったはずの場所は、ひびと落下物で光が乱れている。自動ドアは開いたまま動かず、その向こうに暗い空間が続いていた。

大きな建物の入口にはいつも少し躊躇する。中に入れば見えなくなる。こちらも、向こうも。だが大きな建物ほど残り物の密度が高い。躊躇と期待がだいたい同じ大きさで混ざる。

中へ入る。空気が変わる。外の乾いた広がりから、一気に埃と温度のこもった内側へ移る。靴底の音が床で反響する。吹き抜けの上のほうで、どこか外気とつながっているらしく、風の通る低い音がしていた。店名の看板だけを見れば、まだ小さな町のように並んでいた。

店名の看板。案内図。エスカレーター。化粧品売場だった場所。衣料品の残骸。フードコートの机。全部がまだ用途の名残を抱えている。けれど、いまここで役に立つのはその名残ではなく、物理的な条件のほうだった。暗さ。足場。崩れ方。入れるかどうか。持ち出せるかどうか。

薬局だった区画を探す。案内板は天井からぶら下がったまま傾いている。矢印を辿っていくと、棚の低い売場に出た。薬品はほとんど残っていない。あるいは残っていても、もう判断が難しいものばかりだった。箱の潰れた胃薬。ラベルの剥げた消毒薬。湿気を吸った包帯。

使えそうなものをいくつか拾い、床の状態を確認しながら奥へ進む。医薬品はいつも期待より少ない。必要とされるものほど、早く失われる。それは当然のことだ。当然のことに毎回少しがっかりするのは、たぶんこちらがまだ世界に期待しているからだろう。

次に書店を探す。書店だった場所はわかりやすかった。背の高い棚の列と、床に崩れた紙の匂いが残っていた。紙は匂いでわかる。湿り、埃、インク。そこに少し甘さが混じると、長く閉じた紙の匂いになる。

書店の中は思ったより荒らされていなかった。売り場の奥は暗いが、手前の雑誌棚は倒れ、書籍は散っている。実用書の棚を探す。園芸、建築、応急処置、機械修理、保存食。そのあたりを優先する。

小説や写真集に目が行かないわけではない。だが持てる量には限りがある。限りがあるとき、人はまず役に立つものから選ぶ。その選び方を何度も繰り返していると、役に立たないものへの欲求は少しずつ奥へ退く。退くが、消えはしない。

棚の下に落ちた一冊を拾う。小型の辞書だった。表紙は擦れているが、まだ読める。辞書。いまここで、それがどれだけ役に立つのかはわからない。だが手放しにくかった。役に立つかどうか以前に、言葉そのものの棚みたいに見えたからかもしれない。

その隣に、簡単な応急手当の本、食料保存の本、配管修理の入門書があった。それらを袋へ入れる。重い。だが重さのわりに、この種の本は長く効く。

書店の奥で、崩れた棚の影に一瞬何か動いた気がした。足が止まる。光の加減か、小さな動物か、ただ紙が滑っただけか。わからない。鉄の棒を持ち直し、耳を澄ます。何も聞こえない。

何も聞こえない時間は、外より内のほうが長く感じる。建物の中では音が返ってくるぶん、沈黙も深く見える。数秒待って、動かないことを確認してから棚を回り込む。そこには破れた段ボール箱と、濡れて固まった雑誌の束しかなかった。

安心というより、少しだけ疲れる。危険がなかったことより、危険かもしれない時間を消費したことのほうが身体に残る。

帰る前に、吹き抜けの下の広場へ戻る。フードコートの椅子が何脚か裏返ったままで、床に油の染みのような影が残っている。ここは以前、多くの人間が同時にいた場所なのだろう。食べる、待つ、話す、子どもが走る、買い物袋を置く。そういう動きが重なっていた場所。いまは天井の高い空洞になっている。

人がいない広場では、柱と梁と床のほうが先に見えた。柱。梁。床。光。そこに意味が戻るのではなく、意味が剥がれて構造だけが残る。その感じが少し怖かった。人間の社会も、意味が剥がれたら似たようなものかもしれなかった。関係や役割や仕事や約束が取れてしまえば、ただ配置と通路だけが残る。

持ち帰れるだけの本と薬品を袋に入れ、施設を出る。外の光に目が慣れるまで少し時間がかかる。空はまだ灰色のままだが、午後の傾きが出ていた。

帰りの足取りはいつも行きより重い。荷物のせいだけではない。帰るという方向が決まると、緊張が少しだけ緩み、そのぶん疲れが表に出る。帰り道で一番怖いのは、その緩みだった。

橋へ戻る途中、小さな交番の前を通る。ガラスは残っているが、中は空だった。机、椅子、掲示板。町の秩序を象徴していたはずの場所が、いまは小さくて頑丈な空き箱にしか見えない。そういう建物を見ると、制度というものは意外と薄い膜だったのかもしれないと思う。壊れたというより、剥がれた。

建物はある。看板もある。だが、それが交番であるための人間の流れと信頼のほうが先に消えた。机も椅子も掲示板もあるのに、そこに座る理由だけが抜けていた。

橋を渡ると、少しだけ足が軽くなる。拠点の側へ戻る橋、という認識が身体にあるのだと思う。拠点は地図上の一点だが、身体の中ではもっと強い。戻る場所があるだけで、外部は全部が同じ危険には見えない。危険の外に場所がひとつある。それだけで、道の意味が変わる。帰路という言葉が成立する。

建物へ戻ったときには、陽がかなり傾いていた。搬入口を閉め、閂を落とし、荷物を床へ置く。その瞬間、外で背負っていた薄い緊張が少しだけ剥がれる。だが完全には抜けない。抜けないまま、持ち帰ったものを机の上へ並べる。

本。薬品。辞書。保存食の本。配管修理の本。応急手当の本。それらを見ていると、外部はただ危険なだけの場所ではないと思える。危険であり、過去であり、資源であり、空白であり、まだ名前の残っている場所でもある。それをひとことでまとめる言葉はない。外部とは、拠点でないすべて、では足りなかった。記録帳を開く。

「南東大型商業施設跡。

薬少量。

書籍回収。辞書1、応急1、保存食1、配管1。

橋通行可。

内部崩れあり。

動く気配 1、正体不明。」

動く気配 1。

そう書くと少し滑稽だ。だが事実としてはそれで足りる。外部で起きることの多くは、名前がつく前に身体に入ってくる。匂い、音、視線の感じ、動いたかもしれない影。

それらを完全に確定することはできない。できないまま、数えて、記す。それが今の報告だった。

机の横に袋を置き、辞書を手に取る。思ったより重い。重さのある本は安心する。中身のせいというより、物としての密度のせいかもしれない。頁を開く。紙は少し黄ばんでいるが、文字は細かく整っていた。

外部から持ち帰ったものの中で、いちばん役に立つのが辞書であるとは限らない。だが、この世界でまだ言葉が本の中に順番に並んでいることを確かめるだけで、妙な落ち着きがあった。

外部は、思っているより広く、思っているより薄かった。そして、その薄い場所から持ち帰れるのは、物だけではなかった。時間の抜け殻。制度の痕跡。人の不在の濃さ。そういうものもいっしょに持ち帰ってしまう。拠点の中で荷を下ろしても、それらだけはすぐには降りない。

夜、棚へ本を仮置きする。まだ分類しない。外部から戻ったものは、一晩そのままにしておく。そう決めている。物の確認だけでなく、自分の頭の中の外部を少し冷ますためでもあった。

外の時間をすぐ内側へ混ぜると、拠点の輪郭が少し揺れる。揺れること自体は避けられない。だが、少し遅らせることはできる。

手元灯の下で、最後に一行書き足す。

「外はまだ読める。

だが、読むたびにこちらも少し薄くなる。」

その文は、今日いちばん本当のことのように思えた。

薬、書籍、辞書、気配。

どこまでを持ち帰ったものとして数えるのか、決められなかった。