廃れた大型店舗跡の外観
第一部 残存する世界

第六章 地図

地図を開くと、紙は前から残っている線のところでは止まらなかった。指で伸ばしても、そこから先へまっすぐ開かない。畳み方を間違えたのか、紙の癖が変わったのか、すぐには決められなかった。

地図は、世界がまだ平らであるという仮定の上に成り立っている。広げれば見渡せて、辿れば着ける。道路は道路のまま続き、橋は橋として架かっていて、建物はそこにあり、記号は実物と対応している。そういう前提があるから、紙の上の線は役に立つ。役に立つというより、役に立つと信じられる。

その前提が少しずれると、紙は間違っているというより、前のまま残っているものに見えた。

机の引き出しの一番下に、折りたたんだ地図を入れてある。市街地図、道路地図、住宅地図をコピーしたもの、拾ってきた観光案内図、店の周辺を自分で描き直した見開きの紙。

地図は一枚では足りない。縮尺が違えば見えるものも違う。広域で見れば行けそうに見える場所が、細かい地図では川や高架やフェンスで閉じていることもある。逆に、細かすぎる地図では全体の方向感覚を失う。だから何枚も要る。一枚で足りないたび、机の上の紙は少しずつ重なっていった。

今朝は外へ出る予定がある。遠出ではない。建物の東側、二キロほど先にある小さな配送センターの残りを見たい。以前に一度入ったことがあるが、奥まで見ていない。水や食料を探すというより、容器と梱包材、それから使えそうな台車が残っていないかを確認したい。台車は重いが、あれば移動の手順が変わる。手順が変われば、持ち帰れる量だけでなく、外出の距離感そのものが変わる。

机の上に地図を二枚広げる。ひとつは市街地図。もうひとつは、自分で描き足した周辺図。

市街地図には、道路名、施設名、町名が印刷されている。周辺図には、それに加えて鉛筆で自分の記号が入っている。丸は水。二重丸はまだ使えた水。三角は高所。四角は遮蔽物の多い建物。斜線は通行困難。黒丸は見通しが悪く、近づきたくない場所。×印は入ったが使えるものが少なかった場所。矢印は迂回路。小さな文字で、犬、臭気、割れ窓、傾斜、残骸、などと書いてある。危険、とだけ書くより、その危険が何でできているかを残したほうが、あとで判断しやすいからだ。

地図に自分の記号を書き始めたのは、かなり早い段階だった。最初は普通の地図として見ていた。道路があり、建物があり、駅があり、コンビニがあり、信号があり、町名がある。それだけで十分だと思っていた。

だが実際に歩くと、地図にないものばかりが判断を左右した。壊れたフェンス。放置車両の寄り方。ガラスの散り方。匂い。音の抜け方。見晴らし。日陰。そういうものが通れるかどうか、留まれるかどうか、持ち帰れるかどうかを決める。地図には道路と建物は載っている。だが、ガラスの散り方や匂いまでは載っていない。それをあとから鉛筆で足していくしかなかった。

周辺図の右端に、東の配送センターまでのルートを指で辿る。第一候補は幹線道路沿い。歩きやすいが、見通しがよすぎる。第二候補は住宅地の裏通りを抜けるルート。曲がり角が多く、遅いが、身を隠せる場所は多い。どちらも絶対ではない。実際に出れば、倒木や崩れた塀や、前にはなかった障害物で簡単に変わる。それでも、出る前に指で線を辿ることには意味がある。身体が先に道を知っている気がするだけで、外へ出るときの消耗は少し減る。

市街地図の町名を見ていると、ときどき変な気分になる。町名はまだそこにあるはずだ。標識にも、古い住所表示にも、地図にも残っている。だが、その名前がいまの場所と本当に結びついているのかは怪しい。名前は残っている。けれど、その名で呼び合う人間の密度がなくなると、名前のほうが場所から少し浮く。町名は以前より軽い。軽くなったぶん、こちらの歩き方のほうが重くなる。紙の上で一文字だったものが、実際にはガラス片と水たまりと傾いた電柱の集まりになる。

地図を折ってポケットに入る大きさにする。何度も折り直しているので、角は柔らかくなり、折り目のところだけ白く毛羽立っていた。紙の地図は、使い込むほど見やすくなる部分と、壊れやすくなる部分が同時に増える。自分の手に馴染む。そのかわり、雨に弱くなり、折り目から裂ける。それが少し、人間の記憶に似ていた。使うほど慣れるが、慣れた場所から破れやすい。

出発前に、記録帳へ行き先を書く。

「東側配送センター。

容器、台車、梱包材確認。

第一候補、幹線沿い。

戻りは状況次第。」

行き先を書くのは、自分のためでもあり、誰も読まない誰かのためでもある。もし戻らなかったとき、ここへ来た人間が読むかもしれない。そういう可能性を考えているというより、書いておいたほうが自分の行動が少しだけ輪郭を持つ。輪郭のない外出は、探索ではなく漂流に近い。

建物を出る。朝の空気は乾いている。昨日までの湿りが少し引き、道路の表面も明るい。光がある日は地図が役に立ちやすい。影の向きで方角がつきやすいし、遠くまで見える。だが見えることは、こちらも見えるということだった。見えることはいつも、便利さと危うさをいっしょに運ぶ。

幹線道路へ出る手前の角で一度止まる。ここは地図にはただの交差点として描かれている。だが実際には、左手のコンビニ跡のガラス面が大きく割れていて、朝の光を反射する。反射は遠くからでもわかる。見張る人間がいるなら、目印になる。逆に、人がいなければただの光だ。その違いを遠くから判別する方法はない。

だから交差点の名前より先に、自分の中では「反射の角」と呼んでいる。正式な地名ではなく、機能で呼ぶようになると、場所はすぐに別の地図へ移る。

幹線道路は歩きやすい。路面の状態がよく、倒れた看板も少ない。ただし中央分離帯に伸びた雑草が思ったより高く、向こう側の様子が見えにくくなっている。以前は低かったはずだ。つまりこの地図の余白に、また何かを書き足す必要がある。歩きながら、ポケットの中の鉛筆の感触を確かめる。現場で書けることが、あとで効く。あとで書こうと思うことは、たいてい細部が抜ける。

配送センターの手前で、ルートを変える。地図では正面の搬入口へ回れることになっているが、実際には大型トラックが斜めに止まったまま朽ち、通路を半分塞いでいた。地図は道を描くが、道を塞ぐものまでは描かない。そういう当たり前のことを、外へ出るたび思い出す。その当たり前は何度でも戻ってくる。戻ってくるたび少しだけ重くなる。

裏手の細い通路へ回り込む。住宅地図には載っていないレベルの、配送車用の補助動線だったのだろう。雑草と割れたパレットが散っている。壁際に雨水の筋ができていて、そこだけ黒い。黒い筋はよくない。長く湿っていた場所の色だ。足元を見ながら進む。こういうとき、地図はポケットの中であまり役に立たない。役に立つのは視線の移し方と、体重の置き方のほうだ。

それでも地図を持っているだけで、自分が「どこにいるのかわからない」のではなく、「地図のこのあたりにいる」と思える。その差は大きい。同じ迷いでも、平面の上に置ける迷いと、ただ身体の中で膨らむ迷いでは質が違う。

配送センターの中は前より荒れていた。前回は見えなかった倒壊箇所があり、奥の棚が斜めに崩れている。台車はなかった。使えそうなプラスチックコンテナが三つ、梱包用の緩衝材が少し、透明の丈夫な袋が数十枚。期待したほどではない。だがゼロでもない。地図の余白に小さく書くには十分な成果だった。

壁際にしゃがみ込み、周辺図を開く。膝の上で紙を押さえ、鉛筆で書き足す。

「東配送センター

台車なし

袋、容器少

裏通路可

正面は車両で半塞ぎ」

書きながら、字が以前より小さくなっていることに気づく。スペースを節約しているのではなく、だんだん補足情報が増えているのだ。場所の名前だけでは足りず、状態まで書かないと次の判断に使えない。世界の情報量が増えたのではない。むしろ逆だ。共有される情報が消えたぶん、自分で持つべき情報が細かくなった。

帰りは裏通りを使う。住宅地図には載っているが、市街地図ではほとんど白地のように扱われる細い道だ。家々のあいだを抜け、塀の影を選びながら進む。表札が残っている家もある。

だがその名前を見ても、地図の上の家族や住民の気配までは戻ってこない。表札は、その家に誰かがいたことの記録ではあっても、いま誰かがいることの証明にはならない。地図もまた同じだった。そこに建物があることは示すが、その建物が何であるかは毎回確かめるしかない。

角をひとつ曲がったところで、見覚えのある小さな公園に出る。ベンチ。低い滑り台。砂場。以前は子どもの声があった場所なのだろう。いまは風が通るだけで、砂の表面に猫か何かの足跡が残っている。

地図には小さな緑の四角でしかない。緑の四角、と自分の目の前にある砂場の沈黙のあいだには、かなり大きな距離がある。地図は場所を平面にして見せる。そのかわり、そこにあった時間を抜く。抜かれた時間のぶんだけ、現地に立ったときの沈黙が濃くなる。

公園の縁に座り、持ってきた水をひと口飲む。ポケットから地図を出して、今いる位置を確認する。本当は確認しなくてもわかっている。だがわかっている場所でも、紙の上で指を置くと、少しだけ安心する。

いまここ。その簡単な一致が、人間には必要だった。いまここ、がないと、前も後ろも曖昧になる。地図は未来へ行くためだけでなく、現在地を一度固定するためのものでもある。

帰路の途中、地図にない道を見つける。古いフェンスが倒れ、奥の月極駐車場まで細い隙間ができていた。前には気づかなかった。あるいは前には通れなかったのかもしれない。

こういう道を見つけると少し嬉しい。嬉しいが、同時に地図がまた古くなったとも思う。地図が更新されるということは、地図が間違っていく速度に追いつけていないということでもある。

戻ってから、机の上で地図を広げ直す。持ち帰ったコンテナと袋を脇へ置き、今日見つけた抜け道や半塞ぎの搬入口を書き加える。矢印。斜線。短い注記。紙の上に鉛筆の線が増えるたび、地図は少しずつ自分のものになっていく。市販の地図は正確かもしれないが、自分の生存にはまだ足りない。生きるための地図は、自分で汚していくしかない。

壁に貼った周辺図には、もうかなりの書き込みがある。赤線で消した道。丸で囲った水場。二重線の迂回路。

「犬いない」

「夜は暗すぎる」

「高所より見える」

そんな言葉が並んでいる。地図の上の都市は、最初に印刷されていた都市とは少し違うものになっていた。駅名や町名はまだある。だが本当に役に立つのは、匂い、影、抜け道、音、崩れ、残り物、そういう記述のほうだった。駅名や町名より、足で確かめた匂いと影のほうが先に目に入る。

夕方、記録帳に今日の移動を書き込む。

「東側配送センター。

台車なし。容器少。

裏通路通行可。

幹線沿い、中央分離帯の草高く視界悪化。

新たな抜け道 1。」

新たな抜け道 1。そう書くと、少しだけ仕事の報告書のように見える。その感じが嫌いではなかった。

報告書の形をしているだけで、出来事は少しだけ棚に置ける。全部を理解しているわけではなくても、少なくとも項目に分けて置ける、という態度。地図も同じだ。世界を項目に分け、平面に置き、あとから見返せるようにする。その操作が続いているかぎり、自分はまだ漂流していない。

夜、壁に貼った周辺図を見上げる。紙の上で、拠点は小さな四角で示されている。そこから伸びる鉛筆の線。東、西、南。北はまだ少ない。行っていないからではなく、行きにくいからだ。

行きにくい方向は、地図の上でも白く残る。白いままの場所は、未知というより、判断が足りない場所だった。未知はロマンではなく、たいてい負担だ。負担であることを知ってから、地図の白さも以前ほど魅力的には見えなくなった。

それでも白い場所を眺めてしまう。まだ行っていない。まだ書き込まれていない。まだ自分の記号がない。その白さは不安でもあり、余地でもある。余地という言葉は少し前向きすぎるかもしれない。だが地図に白い場所が残っていること自体は、完全に終わっていない感じをくれる。行くかもしれない。見つけるかもしれない。書き足すかもしれない。そのかもしれない、だけでも十分な夜がある。

記録帳の最後に、一行だけ書く。

「地図はまだ使える。

ただし、世界のほうが先に動く。」

それは少し残念な文だった。だが消さない。残念であることと、使えることは両立する。世界が先に動くなら、そのあとを追って紙に線を足せばいい。

追いつけなくなる日も来るのだろう。道の意味がもっと薄れ、町名の重さが抜け、建物の区別も曖昧になれば、地図の役目そのものが変わるかもしれない。

だがまだ、そこまでは行っていない。まだ、紙の上に指を置いて、いまここ、と言える。そのことが残っているあいだ、外の世界は完全には崩れていなかった。

周辺図の余白に「外」と書こうとして、彼は少しだけ手を止めた。