廃れた大型店舗跡の外観
第一部 残存する世界

第一章 拠点

朝いちばんに確認するのは空ではなく、水だった。

記録帳には、先に「集水」とだけ書いてある。書いた覚えはある。ただ、いつ書いたのかが少し曖昧だった。

屋上から垂らしてある集水パイプの継ぎ目は、夜のあいだにまた少しずれていた。脚立を出すほどではない。ポリバケツをひとつ下に置いて、落ちる滴を受けさせる。

雨は夜明け前に少しだけ降ったらしい。コンクリートの床には、乾きかけた灰色の斑点が残っていた。溜まった量は多くない。けれど、ゼロではない、ということが朝の判断を少しだけ軽くする。

軽くする、といっても、身体が軽くなるわけではない。ただ、その日やるべきことの順番が、まだ決められるというだけだった。

貯水タンクの蓋を開け、懐中電灯を斜めから差し込む。水面は見える。底のほうには細かい粒が沈んでいる。昨日、濾過布を替えるつもりで、そのままにした。今日こそ替える、と記録帳には書けるだろう。書いたことが実行されるとは限らない。だが、書かれもしなかったことは、たいていそのまま腐る。水も、計画も、身体も、たぶん同じだった。

蓋を閉めてから、周囲を見回す。屋上の手すりには、昨夜の風で飛んできた紙片が二枚引っかかっていた。ひとつは色の抜けたチラシで、もうひとつは何かの取扱説明書の切れ端だった。説明書のほうだけ拾ってポケットに入れる。紙は火にもなるし、裏が白ければメモにもなる。チラシは濡れて重く、指でつまんだだけで端が崩れた。落として、そのままにした。

階段を降りる途中、二階の踊り場で立ち止まる。毎朝同じ場所で、一度だけ耳を澄ますことにしている。上からは、まだ水が滴る音がかすかにする。下からは何も聞こえない。何も聞こえない、という確認のために耳を澄ます。

建物は古いホームセンターの居抜きだった。売場の広い平面と、裏手の搬入口、工具や園芸資材を置くのに向いていた倉庫区画、天井の高さ、屋上への出やすさ、その全部が都合よく残っていた。都合がよすぎる建物は、たいてい別の誰かにも都合がいい。最初の一か月は、それが気になって眠りが浅かった。いまでも浅いが、理由はもう少し増えている。

一階に降りると、朝の冷気が床の近くに残っていた。夜のあいだにコンクリートが吐き出した冷たさは、日の出のあともしばらく消えない。

入口の自動ドアは閉じたまま固定してある。外側から見れば、まだ機械が生きていて動きそうにも見えるかもしれないが、電源はとっくに切れている。

ガラスの内側にコンパネを当て、さらに棚板で補強し、その前に肥料袋を積んだ。肥料はもう肥料としてはほとんど使わない。ただ重しとして便利だった。袋の表面には、かつての製品名がまだ読める。野菜の写真が印刷されていて、その色だけが妙に鮮やかだった。

まず正面入口の固定具を確かめ、次に搬入口の閂を見る。異常はない。金属音を立てないように触る癖は、もう必要なのかどうかわからない。それでも続けている。習慣は役に立たなくなってからのほうが、なかなか消えない。

店の奥、元の事務所だった場所をいまは寝床と記録区画にしている。周囲を高い棚で囲い、ひとつだけ通路を残し、その先に机と簡易ベッドを置いた。机の横には記録帳を五冊、立てて並べてある。日誌、在庫、水と電気、探索、雑記。分ける意味がどこまであるのか、最近は少し怪しい。それでも分けているのは、分けることそのものが、まだ生活の側に自分を留めてくれる気がするからだった。

棚の確認に移る。缶詰は右列の上から二段目、乾物はその下、薬品と衛生用品はさらに奥、工具は左側、燃料は壁際。数を覚えているものもあるが、覚えているから確認しない、ということはしない。数えるためだけではなく、触るために確認する。

缶のへこみ、紙箱の湿り、キャップの緩み、ラベルの剥がれ。世界は少しずつ駄目になっていくが、その速度は物ごとに違う。金属は意外に長くもち、ゴムは思ったより早く終わる。接着剤は黙って固まり、布は知らないうちに黴の匂いを抱え込む。薬はまだ使えるものが多いが、信じるしかない場面もある。信じるしかない、というのは、たいてい判断ではなく先送りだった。

昨日の記録では、飲用水の残量は七日。生活用を絞れば十日。雨が入れば少し延びる。延びるが、安心はしない。安心という感覚は、この場所では役に立たない。役に立つのは、順番だった。何を先に使い、何を後に回し、何をまだ使わないか。

冷蔵庫は動かしていない。消費電力に見合わないし、中途半端に冷えた食材を持つことは、結局は贅沢ではなく危険になる。蓄電池の残量は昨夜の時点で六割少し。照明、無線、工具充電、記録用の灯り、それで足りる。足りるように使う。使えるから使う、という感覚はずいぶん前に抜けた。

店内の中央通路を歩くと、靴底が細かい砂を押し潰す音がする。もともと園芸用品の売場だったあたりには、空になったプランターや、口の裂けた培養土の袋がまだ積まれている。土は乾ききって、袋の隙間から床にこぼれ、灰のように広がっていた。そこを朝の光が斜めに差している。ガラスの高窓は何枚か割れていて、透明だった場所にひびと汚れが重なり、光だけが細く入ってくる。外の風景は見えない。光だけが、外がまだあることを知らせる。

最初にここへ入った日、広すぎる、と思った。ひとりで使うには広すぎる建物は、守る面積が大きすぎる。死角も多い。掃除の手間もある。だが、狭い場所には狭い場所の息苦しさがある。音が近すぎるし、匂いが溜まる。逃げ場がない。この建物には逃げ場がある。見失う場所もある。最初はそれが怖かったが、いまは助かっている。手の届かない棚や通路が残っている方が、彼は少しだけ息をしやすかった。視界の端に、自分の手の届かない棚や通路があること。それだけで、世界がまだ自分の内側だけでは完結していないとわかる。

事務所に戻り、机の上の記録帳を開く。日付を書くところで少し止まる。年も月も、たぶん合っている。日付も、たぶん。壁に掛けた古いカレンダーは先月のままで止まっていたが、それはめくるのを忘れたからで、時間が止まったからではない。そういう種類の勘違いは避けたかった。避けるために書く。書くために、まず今日を今日として置く。

朝。夜間に弱い降雨。
集水少量。
継ぎ目ずれ。
要補修。

そこまで書いて、ペンを止める。インクの出が少し悪い。机の隅には、まだ使えるボールペンを十数本、芯の太さごとに輪ゴムでまとめてある。補充の見込みはないが、しばらくは足りる。足りるものはまだ多い。足りなくなるのは、だいたい別のものだった。順序とか、確信とか、そういう、棚には置けないもののほうが先に減っていく。

記録帳を閉じる前に、入口確認の欄を埋めることにした。

正面入口。変化なし。

肥料袋。崩れなし。

コンパネ。浮きなし。

隙間。外確認可。

搬入口。閂異常なし。

書いてから、実際にもう一度見に行く。書いたあとに見るのでは順番が逆だが、逆になったことを覚えているうちは、まだ致命的ではない。致命的なのは、順番が崩れたことに気づかなくなることだった。

自動ドアの内側に積んだ肥料袋の脇から、外をのぞける細い隙間がある。そこに片目を寄せる。朝の駐車場は、いつものように広かった。広く、何も起きていないように見えた。白線は半分以上が擦れて消え、ひび割れたアスファルトの隙間から草が伸びていた。車は四台見える。入口に近い軽ワゴン、タイヤのないワンボックス、フェンス際の白いセダン、それから横転した小型トラック。どれも前からあった。

昨日と違うものを探す。そうすると、たいてい草が違う。影が違う。紙片の位置が違う。雨のあとなら水たまりの形も違う。大きな変化は少ない。小さな変化は多すぎる。全部を記録しようとすると、何も判断できなくなる。だから、変化のうち、入口に関係するものだけを見る。正面まで転がってきたもの。視界を塞ぐもの。扉の前に溜まったもの。足を取るもの。

今日は、入口前の紙片が一枚増えていた。それだけだった。風で寄ったのだろう。文字の一部が読める。特売、という赤い文字だった。特売の何が特売だったのかはわからない。チラシの残りは破れ、雨で薄くなり、紙というより湿った膜に近かった。彼は外へ出なかった。いま取り除く必要はない。濡れた紙は、乾けば軽くなる。入口を塞ぐほどでもない。記録するほどではないが、見たことは覚えておく。

搬入口へ回る。閂に指を当て、扉の下の隙間を見る。昨日詰めた布は少し濡れていた。水が入ったのではなく、外気で湿っただけに見える。床に広がるほどではない。布はあとで替える。すぐ替えない。すぐ替えるべきものと、あとで替えてよいものを分ける。分けられない日は、必要な作業が全部同じ重さになり、結局どれも終わらない。

外へは出ず、扉を少しだけ開けて側面の屋外売場を見る。錆びたラックが何列か残っている。プラスチックの鉢が風で転がり、ひっくり返ったまま溜まった水に空を映していた。空は薄く、色が決まっていなかった。

屋外売場の端に、古い透明シートが一枚めくれている。次に風が強ければ飛ぶかもしれない。飛んでも困らない。だが、飛ばないうちに押さえれば、何かに使えるかもしれない。彼はそれを今日の作業に入れるか迷った。入れないことにした。

水の継ぎ目が先だった。濾過布も替える。入口前の紙片は放置。透明シートは保留。搬入口の布は夕方までに交換。順番が決まると、朝の輪郭が少し戻る。事務所に戻り、記録帳へ追記する。

正面入口 変化なし
紙片1 放置
搬入口布 夕方交換
透明シート 保留
集水継ぎ目 先

書いた文字を見て、少しだけ落ち着く。世界が安全になったわけではない。入口が強くなったわけでもない。水が増えたわけでもない。ただ、見たものが紙の上で順番になった。順番になったものは、まだ扱える。

朝食はそのあとにした。缶詰の豆とクラッカー、湯を沸かして薄い茶。いつもより少し遅いが問題はない。缶の縁に口をつけず、皿に移す。湯をこぼしたらすぐ拭く。そういう無駄な手間が、生活と避難の境目をかろうじて保っている。

豆は甘すぎた。製造から何年経っているのか見ていない。見たところで参考程度にしかならない。クラッカーは湿気ていたが、食えないほどではない。茶は薄い。茶と呼んでいいかどうかも怪しいが、温かい色の湯というだけで朝に近いものになる。

食べ終えたあと、皿を洗うか少し迷って、結局洗った。水は減る。しかし油を残すとあとで面倒になる。あとで面倒になることは、たいてい今のうちに片づけたほうがいい。その原則だけは、まだかなり信じていた。

洗った皿を伏せ、机に戻る。記録帳の今日の欄は、もう半分ほど埋まっていた。水、入口、棚、食事、保留。朝のうちに書きすぎると、その日がすでに終わったように見えることがある。だから余白を残す。余白があると、まだ何かが入る余地がある。

ここを拠点と呼び始めたのは、いつからだったか思い出せない。避難先、倉庫、店、建物、そういう言い方をしていた時期があったはずだ。拠点、という言葉には意志がある。ここを使う、守る、戻る、という意志だ。だが、その意志がまだ自分に残っているのかどうか、朝によって少し違う。少なくとも今日は、まだある。彼はそう判断して、記録帳を閉じた。

屋上の継ぎ目を直すために、脚立を出す。脚立の足には、以前貼った布テープが残っている。剥がれかけているが、まだ使える。工具棚からペンチと針金を取る。針金の束は少し錆びている。使える部分だけを切ればいい。

通路を戻るとき、入口前の湿った紙片がまだ視界の端にあった。取りに行かない。そう決めることも、作業のうちだった。

屋上へ上がる階段で、彼はいつものように二階の踊り場で止まった。上からは水の音。下からは、何もない。何もないことを聞いてから、また上がる。水を先にする。その順番だけが、今日の拠点を支えていた。

ただ、記録帳の端には、まだ決めていないはずの作業名がひとつ、薄く写っていた。